共同体が崩壊した日本にあって信仰に基づく連帯が持つ可能性――社会における宗教の役割・機能について

首都大学東京教授
宮台真司

日本人と宗教の関係

 まず社会学では、宗教をどのように捉えているかというところからお話ししましょう。
 マックス・ウェーバーの「エートス(行動様式)」あるいは、アメリカの宗教社会学者ロバート・N・ベラーが「心の習慣」と呼んだりしていますが、簡単には変えられない精神的な傾向について、それを形づくる非常に重要な要素として宗教を捉えています。もし日本人特有のエートスないし心の習慣があるとすれば、それは日本人と宗教の関係(宗教社会学的条件)を考えてみる必要があるのです。
 東日本大震災と原発事故が明らかにしたのは、どうしてこうも日本人は「昨日の如く今日もあり、今日の如く明日もある」という自明性、平時を前提としたシステムに依存してしまうのかという「心の習慣」の問題でした。
 その依存性について、私が注目しているのは、山本七平が『「あたりまえ」の研究』で示した、「日本人には唯一絶対神が存在しなかったからだ」という指摘です。
 それは簡単に言うとこうです。
 もしユダヤ教、キリスト教、あるいはイスラム教のような唯一絶対神(The God)があれば、神のまなざしから、自分自身の生活形式を反省することができる。別の言葉で言えば、自分自身の主観に依存しない、自明性に埋没しない、生活形式の評価の物差しを獲得することができる。
 しかし日本の場合はそうした唯一絶対神が存在しないため、自分が幸福であると認識していればそれでよいとしがちです。自らの行動を振り返る契機が習慣としてないため、自明性に埋没しやすいのが日本人なのです。

信仰共同体が求められる理由

 無縁死、超高齢者の所在不明問題、子どもの虐待放置、自殺率の高さ――さまざまな社会的指標が日本において共同体が崩壊していることを示しています。
 グローバリゼーションが進むなかで、苛烈な競争に人々はさらされています。精神的な安全を保障する安穏の地となる共同体の再建は必要です。ですが、どうすればいいのかという問いに正解を示すことは難しい。
 では、これまでの地縁や血縁共同体を再組織すればよいかというと、それは非常に時間がかかります。
 また、にわかに脚光をあびている〝ネット縁〟は、ことに非常時には無力です。非常時に機能する共同体には、顔と顔をあわせるような「近接性」が求められるからです。
 そのなかで信仰共同体が重要な役割を果たす可能性は大きい。たとえばアメリカは、現在でも宗教的アソシエーションが国家と個人の間にある中間集団のベースになっています。
 また、僕が調査を行っている沖縄では、本土並み化が進むにつれて、家族共同体(大家族主義)が崩れてきました。本土並み化が進んで増えたものは、実は老人介護施設と創価学会の支部の数です。父母を老人介護施設に預けるようになった。そして、失われた共同体を信仰共同体が埋めている。
 震災時において、物資面や精神面で創価学会の避難所は安定して、その役割を果たしていました。やはりこうした共同体を介しての相互扶助がなければ人々は生きてはいけない。地域共同体や職能集団共同体に代わる最後の砦として、信仰共同体のもつ可能性はあるのではないかと思っています。

「癒やし」か「世直し」か

 宗教の類型には、ご利益祈願型か意味追求型か、現世救済型か来世救済型かなど、さまざまあります。
 ここで問題にしたいのは、「癒やし宗教」と「世直し宗教」という区分です。
 癒やし宗教は、来世救済型宗教とも重なりますが、世直し宗教の側から、苦しみのもととなっている社会の矛盾、悪辣な世俗権力を放置してしまうと批判されます。
 世直し宗教は現世救済型と重なりますが、これぞ世直しと思ってサポートしたことが、10年後、20年後にとんでもないものとなる危険性を孕んでいます。
 カール・バルトと同時代のプロテスタントの神学者フリードリヒ・ゴーガルテンは、ヒトラーをイエスの再来として、ドイツキリスト教者の会をナチスへと導いてしまいました。そのときはよかれと思っての行動でも、なにが世直しであるかは、社会的文脈によって変わってしまうのです。
 過去そして現在も、宗教と世俗権力の関係については、宗教が利用されることも含めて、さまざまなケースがあります。
 癒やし系にしても、世直し系にしても、手段が目的と違いすぎる場合には問題があると考える必要があるでしょう。

不条理を理解する装置

 一方で、宗教をひとしなみに恐れ、「カルト」とレッテルを貼って排除することは粗雑な考えです。
 宗教は、理不尽、不条理を理解するための装置とする考え方が社会学にはあります。
 誰よりも健康に気を使っていたのに、誰よりも早くがんで死んでしまう。自分より明らかに能力の劣る人間が先に出世していく。昔の社会だと飢饉や飢餓、天変地異。なぜあの村でなくこの村なのか。そういった理不尽さを理解できなければ、人はやっていけないのです。そのためのメカニズムとして宗教が必要とされる。
 カルトかどうかというのは、社会的に承認されているかどうかという問題に行き着くと思います。
 マックス・ウェーバーは、「キリスト教は世俗化に耐え、適応して生き残った」と言っていますが、さまざまな社会生活と信仰が両立可能かで判断できると思います。学校に登校させない、仕事を辞めさせる、結婚させないといった分断があるかどうかという点が一つの基準となるでしょう。

「幸せ」を基準に先入見を問い直せ

 世界の国民の幸福度調査において、ブータンでは、現在の生活に満足しているという設問に対し、やや満足を含めて97%が満足と答えています。日本は満足が3.6%、やや満足を加えても35.8%しかありません。
 先進国との比較というだけでなく、世界全体から見ても、日本の幸福度の低さはもはやスキャンダルだと言ってもいいくらいです。何も考えないで生きていれば、日本ではほとんどが不幸せになってしまう。
 考えるというのは、先入見を離れて見るということです。これまでは、「任せて文句を言う」というのが日本人の典型的な行動のパターンでした。いま求められている態度は「引き受けて考える」ことです。
 宗教が怖いというのも、先入見かもしれない。「幸せになれるのか」という観点で見直すべきなのです。

<月刊誌『第三文明』2011年11月号より転載>


みやだい・しんじ●1959年、仙台市生まれ。京都市で育つ。東京大学大学院博士課程修了。現在、首都大学東京教授。社会学博士。社会システム論専攻。『権力の予期理論』(勁草書房)、『制服少女たちの選択』(講談社、朝日文庫)、『日本の難点』(幻冬舎新書)、『14歳からの社会学』(世界文化社)など著書多数。 MIYADAI.com Blog