憲法は平和主義とともに国際協調主義も要請している

九州大学大学院准教授
井上武史

 安保法制が施行された今、あらためて安保法制成立の過程を見つめなおし、今後の課題を探る。井上武史氏に聞いた。

違憲の根拠は示されていない

 今回の安全保障関連法(安保法制)に関して、憲法に照らして合憲とする根拠がどこにあるのかということをよく聞かれます。これについては、積極的に合憲というよりは、明確に違憲といえない以上は合憲である、というのが私の立場です。
 そもそも、こうした問いかけそのものが問題設定として不適切なものです。なぜなら、集団的自衛権は国際法で認められた権利であり、もともと国家はそれを正当に行使することができるわけですから、あらためて行使を認める根拠を見つける必要などありません。
 問題は、集団的自衛権の行使を憲法が禁止しているかどうかですが、実際のところ、憲法の中で、集団的自衛権の行使を明確に禁止している条文は、見当たりません。
 憲法9条は「自衛のための武力行使」を禁止していない、というのは有力な学説で、これに基づいて個別的自衛権の行使は正当化されてきました。では、なぜ個別的自衛権はよくて、集団的自衛権はいけないのかということになりますが、その明らかな根拠を憲法の中に見いだすことはできません。自衛権を集団的と個別的とで区別し、前者だけを禁止するということを憲法が明確に示していない以上、集団的自衛権の行使が違憲であるとは断定できないのです。
 また、憲法9条に関する議論の過程で、憲法学者の中から「違憲で決着している」「憲法学者のほとんど(95%以上)が違憲と考えている」「憲法解釈は法律家共同体(憲法学者や弁護士)が決める」などの議論を遮るような言説が出てきたことは、およそ学問的な態度とはいえず、非常に残念なことでした。
 特に、反対派の憲法学者が数の論理を持ちだしたことはよくなかったと思います。専門家である以上は、数の論理を振りかざして議論を封じるのではなく、理路で勝負するべきだったと思います。

「立憲主義に反する」の違和感

 憲法解釈の変更について、「立憲主義に反する」と批判する声が多くありました。しかし、政府に解釈権を認めるのであれば、その変更権があるのも当然であり、憲法解釈の変更自体が認められないとの主張に理論的な根拠はありません。そうでないと、ある時点の政府が決めた憲法解釈に、後の政府は未来永劫にわたって拘束されてしまうからです。それこそ過去の一内閣に特権を認めることではないでしょうか。
 それにもかかわらず、憲法学者の多くが、政府見解の変更はできないと主張していたことについては、法理論を超えた「ある種の政治的な意味合い」が込められていた疑いがあります。
 また、立憲主義とは、元来、その国の憲法や政治体制の在り方を判定する概念です。伝統的には、権利の保障と権力の分立がきちんと確保されていることが、現在ではそれらに加えて、憲法違反に対してそれを是正する違憲審査制が備わっていることが、立憲主義の指標になっています。これに倣(なら)い、憲法学者は、戦後70年間、日本国憲法は、立憲主義の基準に適った憲法(憲法が統治者の行為を統制してきた)であると誇ってきました。
 このように立憲主義の対象が、あくまで憲法や政治体制であるにもかかわらず、昨年の安保法制論議で、政権の行為や政策が「立憲主義に反する」といった使い方をされたことは、全く憲法学で了解されたものではありません。これは、国際標準から外れた用法であり、外国語で説明できません。政権の行為や政策が憲法に違反するのであれば、「憲法違反」といえばよいだけです。そもそも「立憲主義違反」には法的な意味がなく、それを憲法学者が政治的な文脈で用いたことは、専門家の矩(のり)をこえるものであり、非常に残念なことだったと思います。
 現在、仮に「立憲主義に違反する」事態が起こっているというのであれば、それが一体どういうことを意味するかを冷静に考えなければいけません。それは実は、憲法に不備があることを認めることです。なぜなら、反対派の人々の目には、安倍晋三首相が暴走していると映り、だから立憲主義に反すると批判したわけですが、それは逆にいえば、憲法が政権の暴走に歯止めをかけられていないことを自白しているのに等しいからです。
 そのような憲法の不備が浮き彫りになったとすれば、私たち憲法学者がすべきことは明白です。それは、本来すべき議論を行わず、かつ法的に意味のない議論に終始するのではなく、憲法の不備を整えるために、政権が暴走したくてもできないような仕組みや制度を検討し、提言することです。それが専門家としての憲法学者に期待された役割でしょう。

国会議員の責任を放棄した野党

 建設的な議論に至らなかったことの責任は野党にもあります。「戦争法案」などという人々を惑わすデマゴギーを流して、思考の停止を招いたことは極めて酷い対応でした。何より一連の批判を通して、野党は国会議員としての責任を放棄してしまったと思います。本来、政府が何をいったとしても、政府だけの決定では何もことを進めることはできません。集団的自衛権についても、政府がいくら憲法解釈の変更を行ったところで、最終的に法律の根拠がない限り、自衛隊は出動も武力の行使もできません。
 つまり、決定的に重要なことは法律の制定ということになります。その法律の制定権限を有する国会議員が、政府や内閣法制局の見解に依りかかり、その批判に終始していたことは、やはり国会議員としての責任を放棄したといわれても仕方がないことだと思います。
 たとえ、数的に不利な野党であったとしても、建設的な提案をして議論を喚起することはできたはずです。特に第一党の民主党(現民進党)が、それを全くしなかったことは、たいへん残念でした。議会の中にいる人たちが、真剣な法律論議をせずに、外野に向けた政治的なアピールばかりをしているような状態は、言論の府としての品格だけでなく、その存在意義すら問われるでしょう。
 一方、与党の中で公明党は、自民党へのブレーキ役としての力を十分に発揮しました。特に2014年7月の閣議決定で示された新三要件は、かなりの歯止めになったと思います。従来の72年見解(詳細記事)の表現を盛り込んだあたりは、法律論としてたいへん優れたものであったと評価できます。
 公明党の山口那津男代表や、与党協議にあたった北側一雄副代表が弁護士出身の国会議員であったことが、専門性に基づいた現実的な議論につながったのだと思います。

「国際協調主義」の視点

 今回の安保法制の成立の意味は、できる範囲を広げた(備えをより充実させた)ということです。それを実際に行使するかどうかは、また別の議論になります。
 今後は、いざという事態を迎えた時、実際に行使するかどうかの正しい判断を下せる資質を政治家が備えているのか、また国民がそのような政治家を的確に選んでいるのか、というところが問われてくると思います。
 いずれにしても国会で通った以上、安保法制は国民の総意ということになるので、そのことを念頭において、賛成派も反対派も、現実にどう使われていくのかの議論を重ねていく必要があります。また、審議の過程で明らかになった問題を踏まえて、憲法裁判所の創設や内閣法制局の独立性を高めるといったことも、今後議論の余地があるところだと思います。
 もう一つ憲法学の立場からいえるのは、一連の安保法制の議論では、憲法が掲げる国際協調主義が忘れられているという点です。日本国憲法には平和主義とともに、国際協調主義も高らかに掲げられています。
 集団的自衛権や集団安全保障というのは国連憲章で認められ、かつ、国際社会の平和と安定のために各国が協力して取り組んでいる事柄です。それなのに、それらを単純に「戦争」と決めつけて頭ごなしに否定するのは、本当に憲法の趣旨に適った議論なのか疑問に感じます。
 また、政策的な面からも、日本は戦後から今まで一貫して国際社会の平和と安定の受益者であったわけですから、それに対して応分の負担を行うのはある意味当然で、それこそ国際社会で「名誉ある地位を占めたいと思ふ」と願う憲法に合致する行動ではないでしょうか。
 その意味で、憲法は平和主義とともに国際協調主義も要請しているということを忘れずに、今後も丁寧な議論を重ねていってほしいと思います。

<月刊誌『第三文明』2016年6月号より転載>


いのうえ・たけし●大阪生まれ。京都大学法学部卒業。同大学大学院法学研究科修了。博士(法学)。京都大学助教、岡山大学大学院准教授を経て、2014年から九州大学大学院法学研究院准教授。専門は憲法、結社の自由、憲法裁判論。著書に『結社の自由の法理』(信山社)など。