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「答えのない問い」を考える道徳教育の旅

武庫川女子大学教授
松下良平

 2018年度以降、小中学校で道徳が教科化される。「戦前の修身教育への回帰」との批判もあるなか、日本の道徳教育が向かうべき道を専門家が提言する。

道徳科はいじめ解決につながるのか

 今年(2015年)3月、文部科学省は小中学校の「道徳の時間」を正式な科目へと格上げする方針を決めました。小学校では2018年度、中学校では19年度から、国語科や社会科と同じく「道徳科」としての授業が始まります。
 11年10月、滋賀県大津市で起きた、いじめによる中学生の自殺が大きな社会問題になりました。この事件をきっかけに第2次安倍政権は、道徳の教科化を提言しています。
 安倍政権が設置した教育再生実行会議は、「理性によって自らをコントロール」という表現によって道徳教育の充実を訴えました。理性的なルールによって人の行動を管理するというのは、17~18世紀のヨーロッパの発想です。
 中央教育審議会は道徳教育の使命について「多様な価値観の存在を認識したうえで、自ら感じ、考え、他者と対話し協働」と説明しています。文科省は「『考え、議論する』道徳科への転換により児童生徒の道徳性を育む」と表現しました。教育再生実行会議が最初に示した粗雑な発想は、その後かなり抑えられました。
 私自身は、道徳の教科化がいじめ予防や解決につながるとは期待していません。いじめとは、人間と人間の関係のなかで起こる非常に根深い問題です。ほつれた糸を1本ずつほぐすように、普段の生活全体を通じた教育によって辛抱強く取り組むほかありません。教科書を使った机上の教育だけで解決できるほど、いじめ問題は簡単ではないのです。
 18年度から教科化されるということは、文科省の検定教科書はこれから1年程度で作らなければいけません。道徳とは政治・経済をはじめ、あらゆる分野に関係する学際的な(学問の分野を横断した)ものです。本来であれば3年は準備期間を設け、政治学者や社会学者、倫理学者など多様な研究者がチームを作って教科書を作るべきだと思います。
 とはいえ、18~19年度から道徳が教科化されることはすでに決まりました。道徳教育が危うい方向に進む可能性を秘めている以上、教科化に批判的な人ほど、むしろ教科化を機に道徳教育を建設的なものにしていったほうがいいでしょう。

教育勅語、修身と「心のノート」

 戦時中まで、日本では「修身科」があり、そこで教育勅語に基づいて道徳教育や愛国教育が行われました。
 文科省は2002年から、小中学生に「心のノート」という道徳教材を配布しています(民主党政権の時代のみ中止)。国定教科書まがいの教材で心の問題が扱われたため、「修身の復活だ」という批判の声が出ました。今回の教科化決定についても同様の声が噴出していますが、私はそうは思いません。
 教育勅語や修身は、明治期から戦中にかけて国民国家建設のために利用されてきました。一方「戦後レジームからの脱却」を掲げ、グローバル経済を重視する安倍首相は、むしろ現在の国民国家を解体し、国家を表面的に取り繕うために道徳教育を利用していく可能性があります。
「戦前への回帰だ」という左派の論理で反対しても、道徳の教科化を進めようとしている人たちとの議論はかみ合いません。私は教科化を警戒していますが、かみ合わない議論でいたずらに反対して、放っておくだけだと、道徳が悪用されてしまうので、教科化で何ができるかという可能性にかけてみるべきだと思います。
 文部科学行政全体としては、下村博文文科大臣をはじめとして、教育現場をコントロールしようという意識が強いように感じます。先述した教育再生実行会議のような論調に引っ張られないよう、新しい時代の創造性、協働を重視する自由な道徳教育を作っていくべきです。
 小学校の道徳教材に「かぼちゃのつる」という話が出てきたのをご存じでしょうか。かぼちゃがあちこちにつるを伸ばすと、いろいろな人の邪魔になります。車が上を通った瞬間つるはブッツリ切れ、かぼちゃは痛くて泣きだしてしまいました。
 要するに、この教材では「人の迷惑になることには手を出すな」と言っているわけです。少しくらい他人とぶつかったくらいで引き下がる人は、グローバルな社会では生きていけません。そもそも人と関わるときは多少なりとも迷惑がかかるものです。日本社会では、「かけていい迷惑」と「かけてはいけない迷惑」を共同体のなかで合意してきたわけです。国家による道徳とは、迷惑のラインを勝手に引いてしまいかねないものです。「他人に迷惑をかけるな」と頭ごなしに言われてしまったら、子どもたちは木登りも冒険もできなくなってしまうわけです。
 人々を自由にする道徳教育ではなく、人々を窮屈な型に閉じこめて引きこもることを教える。「かぼちゃのつる」のような息苦しい道徳教育は、もっと自由で開かれた形に変えていくべきなのです。
「自分のわがままを人に押しつけず我慢しましょう」という発想には立たず、「私たちの社会はどれだけ自由を認めているのか」「権利にはどういう意味があるのか」と考えていくのです。

「ハーバード白熱教室」を1つのモデルに

 2010年、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授(政治哲学者)による授業「ハーバード白熱教室」(NHK・Eテレで放送)が大変な話題になりました。「殺人に正義はあるのか」「富は誰のものなのか」といったテーマを取り上げ、受講者同士の意見をぶつけ合わせるサンデル教授の授業は、学校教育の1つのモデルになります。
 サンデル教授が手がける授業は「答えがない問い」について考える道徳教育そのものです。「自由とは何か」「権利とは何か」「市場経済の論理を貫いたとき、社会のあちこちで発生する軋みをどうしていけばいいのか」といった問いには、たった1つの解答などありません。今すぐ答えが出なくても、大人になってまた考えればいいのです。
 経済的に豊かな社会を追求すればするほど、社会はいろいろなものを失っていきます。そのことに気づくだけでも、子どもたちにとっては大いに意味があるのです。
「答えがない問い」について考える授業を実際にやってみれば、専門家と同じレベルの鋭い意見が小学生から出てきて驚くはずです。
 皆がたった1つの解答に導かれることが、道徳教育の目的ではありません。多様な意見を教室でぶつけ合ったときに、子どもたちは「ほかの人は自分とは同じ考え方ではないのだな」「自分は一定の考え方に縛られていた」と初めて気づくことでしょう。
 人の考え方が多種多様であることを知れば、異なる他者を認められます。多様性を認められれば、考えの違いや対立が陰湿ないじめに発展することはありません。子どもたちが自分の考えを外に開放し、他者と自分の違いに気づき、考えを深めていく。そのための道徳教育の授業をどうつくるかが、これからの課題です。
 現状でも人権教育はできます。教科化に萎縮することなく「都会と地方の格差」「在日外国人差別とヘイトスピーチ」「同性愛者の結婚」といった身近な問題を積極的に議論していけばいいと思います。
 道徳の新しい検定教科書ができた暁には、保護者や一般市民が手に取って読み、子どもたちや先生と一緒に考えてみればいいのです。教科書におかしなことが書いてあると思うのであれば、「これは間違っているのではないだろうか」と親同士で議論してみる。
 子どもも大人もメディアも、皆が意見を言い合いながら「道徳科を育てていく」のです。社会全体で道徳科を育てるという発想がなければ、道徳科は充実しないまま、やがて暴走しかねません。
「問いに対する答え」を教える教育ではなく、「答えのない問い」について考える。こうした思考の訓練は、従来の日本の教育現場にはありませんでした。人と人、さらには国家と国家の価値観のぶつかり合いを乗り越えるために、道徳教育は格好の練習場になるのです。

<月刊誌『第三文明』2015年7月号より転載>


まつした・りようへい●1959年、鹿児島県生まれ。京都大学教育学部卒業。同大学院教育学研究科・博士後期課程学修認定退学。博士(教育学)。専門は教育学、教育哲学。日本の学校における道徳教育の歴史と実態を踏まえ、哲学・倫理学・社会学・政治学などの成果にも学びながら、道徳教育理論の根本的な再講築を試みる。金沢大学人間社会学域学校教育学類・大学院人間社会環境研究科 教授、大学院教育学研究科長などを経て、2015年4月から現職。著議『知ることの力 心情主義の道徳教育を超えて』『道徳の伝達 モダンとポストモダンを超えて』『道徳教育はホントに道徳的か?』など多数。