連載エッセー「本の楽園」 第73回 こころ傷んで

作家
村上政彦

僕は小説家を志す前から人物観察が好きだった。たとえばデパートや駅の構内など、人がたくさんいるところへ出かけて行って、何をするわけでもなく、ただ、そこにいる人々を眺めている。
お年寄りがいる。子供がいる。会社員らしい男性がいる。買い物をしている婦人がいる。そういう人々を見ていると、どこからか物語が立ち上がってくる。この人は、こんな家に住んでいて、こんな家族がいて、こんな生活を送っている。本当は、そんなこと分かるはずもないのだが、何となく想像できる気がする。
それを想像してどうするわけでもない。ただ、そこにいる人物を観察して、背後にある物語を愉しむ。僕は大きな書店へ行くと、そこで何時間でも過ごすことができるが、人物観察も同じだった。つまり、僕は人という本を読んでいたのだ。

上原隆の文章を読んで、少年のころの人物観察を思い出した。ノンフィクションというと、社会問題をあつかった大部の本を想像する。しかし上原の文章はそうではない。ノンフィクション・コラムと銘打っているが、1篇が短い。そして、何かを主張しようとする気配があまり感じられない。
もちろん著者は、問題意識を持って、取り上げる人物を選んでいるだろう。ただ、押しつけがましくない。そこに、人物をそっと立たせる。そして、その姿をシンプルに描いてみせる。
上原は、もともとは記録映画の制作会社に勤めていた。そのかたわら『思想の科学』編集委員として執筆活動を始めた。その後、執筆に専念する。僕が彼の文章に触れたのは、キンドルの電子本だった。
きっかけは憶えていない。1冊読むと、もう少し読みたくなって、結局、3、4冊ほど購入した。どれもおもしろかった。『こころ傷んでたえがたき日に』は、そのなかの1冊。かつて人物観察をしたように、取り上げられた人々を書き出してみる。

不妊治療中、妻が不倫の末に妊娠し、離婚された男性。
60年にわたって新聞配達を続ける老人。
猛烈なビジネスウーマンにこき使われて退職した若い女性。
井の頭公園に集う人々。
母に虐待を受けて暴走族になり、強盗傷害致死事件で受刑後、シングルファーザーとして何人もの子供を育てる男性。
彼女とセックスができずに別れてしまい、縒りを戻したいとおもっていたら、結婚されてしまった若者。
ノーベル文学賞の候補と噂される作家と若いころ交流のあった書店主。
母とともに難病のクローン病に闘い勝った若者。
川柳の投稿を生甲斐にしている年配の独身男性。
ファミレスでお茶をしているお祖母ちゃんと孫。
ホームレスからサンドイッチマンになった男性。
突然、文壇から姿を消した批評家。
視力を失って盲導犬と生きる女性。
娘を殺されて殺人事件の時効廃止法の成立に尽力した夫婦。
高齢者のための夜間安心電話に電話をする老人と、それを受けるボランティアの人々。
定時制高校に通った高校生たちの数十年後。
炊き出しを待っているホームレスたちと、ホームレスの支援をする年配の男性。
ベッキーや宇多田ヒカルなどの有名人たち。
小学校の教師を定年になって、知的障害のあるホームレスの若者と同居し、世話をする老婦人。
閉店の決まった古書店の主。
自分の両親の介護日記。
駄菓子屋に集う子供たち。

取り上げられているのはわずかを除いて、無名の庶民ばかり。しかも上原の目線は低い。対象と同じ位置に立って、彼らの生き方をじっと見つめている。読み手の僕らは、いつか著者の存在を忘れて、市井に暮らす人々の姿を眺めている。
上原は、取材相手から感謝されることがあるという。自分の身の上に起きた出来事が物語となったことで、客観的に見ることができるようになったと。これは物語の効用である。
表題は、石川啄木の次の歌から取られている。

 ゆゑもなく海が見たくて
海に来ぬ
こころ傷みてたへがたき日に

鬱屈したとき、この本を手に取ってみるといい。いろいろな人の人生が垣間見えて、苦しいのは自分だけではない、と分かる。

お勧めの本:
『こころ傷んでたえがたき日に』(上原隆著/幻冬舎文庫)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。