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沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流
第31回 (特別編)座波心道流 日本本土に保存された知花系空手

ジャーナリスト
柳原滋雄

大阪で独自に保存された沖縄伝統空手

 日本本土にユニークな知花系流派が継承されている。座波心道流(正式名称は心道流心道会)と呼ばれ、本部は宮崎市にある。
 流祖となった座波仁吉(ざは・じんきち 1914-2009)はもともと那覇市の首里鳥堀町の出身で、鳥堀町、赤田町、崎山町は首里城の城下町として、泡盛製造を認可された酒蔵が集中し、それらを盗賊などから護るために空手の原型である手(ティー)が発達した地域として知られる。いわゆる首里手の本場の系譜である。

心道流を開いた座波仁吉師の写真

心道流を開いた座波仁吉師の写真

 座波仁吉は幼少のころからそんな空手が当たり前の土地柄で育った。父親は首里城に勤務する役人であり、松村宗棍や糸洲安恒に師事する武人でもあった。仁吉のすぐ上の兄・座波次郎は小林流の開祖・知花朝信(ちばな・ちょうしん 1885-1969)の直弟子として師範代のような立場にあった。仁吉は主にこの父と兄から、幼少のころから空手を教わっている。
 そのため、「小学校卒業する時分から空手は完成に近かったと思います」(宇城憲治著『武道の原点』)と本人が述懐するほど、生活に一体のものとして空手にのめりこんだ。
 仁吉に空手を教えた兄の次郎は惜しくも戦争で亡くなったため沖縄空手界の歴史に名前を残していないが、生きていれば戦後の沖縄空手界の一角をなしたことは疑いようがない。世代的には長嶺将真(ながみね・しょうしん 1907-1997)や島袋太郎(しまぶくろ・たろう 1906-1980)らの同世代と見られる。
 仁吉は6人きょうだいの末っ子の5男坊で、20歳のとき本土に出た。大阪で働き、戦争中は空襲を避けるために九州の宮崎県に疎開し、戦後、宮崎大学空手道部の創設にかかわる。心道会本部が宮崎市にあるのはそのなごりである。
 1955年、大阪に新しい職を得て、再び関西へ戻る。そこで終生暮らすことになった。此花区(大阪市)にあった自宅の4帖半の板間が稽古場で、ここから創心館館長の宇城憲治(うしろ・けんじ 1949-)も育っていった。
 座波仁吉の空手指導は本土に出てからのおよそ70年に及ぶ。大阪では少数の弟子をとり、亡くなる直前まで共に稽古を続けた。かつて沖縄では、3帖程度の〝隠し部屋〟で秘かに稽古した時代があったというが、その方式をそのまま受け継いだ形だった。
 この自宅道場で仁吉師が亡くなるまでおよそ35年にわたり師事した一人が、座波心道流順心館の山田順也(やまだ・じゅんや 1953-)館長である。

 座波先生は、空手は超接近戦の武術なので広い場所では上達しない。広いところで稽古すると技が大きくなったりするから、狭い場所で稽古するものだとよく言われていました。

 順心館では週1回、大阪市内の某所で稽古を続けている。その稽古体系や空手理念を知れば知るほど、かつて沖縄でひそかに稽古されていた空手が時代を越えてそのまま保存されているとの印象を強くする。

座波仁吉が残した稽古体系

分解組手を指導する山田順也館長

分解組手を指導する山田順也館長

 心道流では突きや蹴りなどの基本稽古の体系のほか、5つの古伝型を中心に稽古を行う。順に、サンチン、ナイファンチン、パッサイ、クーサンクー、セイサン。このうちサンチンとセイサンは那覇手系の型である。
 もともと空手に流派がなかった時代、型の得意な先生を訪ねてそれぞれの型を習得し、自分の手をつくるというのが空手家の現実だった。そのため座波仁吉も、首里手の知花系統の型を習得したほか、那覇手の武人からも型を習得した。流派の存在しない時代の沖縄の空手はこのようなものだったと思われる。
 剛柔流開祖の宮城長順(みやぎ・ちょうじゅん 1888-1953)も、サンチンや転掌のほかにナイハンチ(首里手の型)を行っていた記録が存在する。ただし、心道流のサンチンは剛柔流のそれとは息づかいもまったく異なり、いわゆる首里手サンチンと呼ばれるものに近い。心道流で採用しているサンチンは、宮城長順の系統とは異なり、宮城の師匠であった東恩納寛量の系統のものとされている。
 いずれにせよ、後世の修行者のために多くの型の中から5つの古伝型を選定したのは座波の独創そのものだった。座波がこれらの型に空手のエッセンスが詰まっていると考えたからにほかならない。
 一般にパッサイほど多くの名前を残している型も珍しいが、心道流のそれは知花朝信伝のパッサイで、1938(昭和13)年に発刊された『空手道大観』で知花本人が記しているところでは、松村宗棍(まつむら・そうこん 1809-1999)が多和田親睦(たわだ・しんぼく 1814-84)に伝えたものが知花に伝えられたとされる。その意味で最も古流のパッサイともいえ、現在の沖縄小林流ではパッサイ大として継承。糸洲安恒(いとす・あんこう 1831-1915)がアレンジしたパッサイ小と区別している。
 また、心道流のクーサンクーは座波次郎の親しい友人であった多和田真平(多和田真睦の孫)から受け継いだと推測され、多和田のクーサンクーと称している。現在の沖縄小林流のクーサンクー小に似ている。
 心道流ではサンチン、ナイファンチンを基本型(鍛錬型とは言わない)に据え、この2つの型で培った体の使い方を用いて残り3つの応用型を稽古する。
 また、心道流は空手の世界ではすたれている感の強い「投げ技」「はずし技」「捕り技」(瑞泉拳と称する)が伝承されている点も特徴で、いずれも5つの型から派生したものが多い。
 2月半ば、大阪市で順心館の稽古風景を見学する機会を得た。週1回およそ2時間の稽古に集まったのは10数人。心道流ではしょっちゅう合同稽古を行うわけではなく、日ごろは一人で型などを黙々と稽古する〝一人稽古〟が中心で、定期的に集まることによって、互いの動作をチェックしたり、対人でないと試せない稽古を行う。

5つの古伝型を指定

サンチンの型を稽古する心道流の門弟たち(大阪市)

サンチンの型を稽古する心道流の門弟たち(大阪市)

 この日の稽古は、最初に基本型のサンチンを3回行った。師範からは「肚(はら)の圧搾(あっさく)を忘れないように」との言葉が出た。
 肚の圧搾とは、呼吸によって「姿勢から出る力」を発揮できる身体の中心(=肚)に力をとることをいう。心道流空手は、正しい姿勢から生じる骨格理法を究極的に突き詰めた空手というべきものであり、サンチンはそうした有効な体の動かし方を身につけるための原理原則が詰まった必須の型とされるものだ。
 さらに流派独自の準備運動、基本稽古(天の型=受け+突き、地の型=受け+蹴り)、移動式(移動稽古)を行ったあと、対面となって天の型の分解を行った。
 心道流では、5つの古伝型は鋳型のようなもので「変えてはならない」との遺命が残されている。それぞれ自分の体格に合った技を鋳型の型の中から取り出し、「型を形にして」自分の技として身につけることが稽古の目標とされる。そのため分解組手(基本分解、応用分解)を重視するのも、心道流の特徴だ。
 最後に、もう一つの基本型であるナイファンチンを3回行い、この日の稽古は終了した。
 稽古を締めるときに、師範が声に出した「今日の生活を反省します。本日元気でいることをご両親に感謝いたします。他所様にご迷惑をかけないことを誓います」の3カ条は、仁吉師が稽古の最後に必ず暗唱していた文句そのままだという。

 座波先生は空手とは本来好きな者同士がグループでやっていたものだとよくおっしゃっていました。また、基本的に流派を残すという感覚は先生にはなく、心道流の5つの型を残していきなさいとの教えでした。そのため、型を伝承できる人をつくるために現在は教えています。

 山田館長は、少人数で合同稽古を行う目的をそのように語る。心道流の稽古体系はかなり理詰めのものであり、なおかつ合理的な骨格操法のため、いっぺんに多人数に教えられるような性質のものではない。少人数の弟子たちに着実に浸透させていくとの意図から、宣伝して広く弟子を採るという考えなどみじんもないようだ。

 座波先生は152センチと小柄な体格でしたが、先生の空手の魅力はぱっと(相手の)中に入る独特の技術にありました。また、接近戦からの裏拳上げ突きが得意技で、先生の突きはまったく見えません。もらえばすぐにあごが外れるほどの威力がありました。

 90歳の誕生日に、仁吉師は側近の弟子たちにこう言い残したという。

 一発勝負なら、まだ若い者には負けない自信がある。

 ほとんどの勝負は一発で終わることを前提に、もつれる格闘に陥らない限り、まだ負けることはないとの武人としての気持ちが言わせた言葉だった。
 座波は「型は美しく 技は心で」「他尊自信」「戦わずに勝つ」など多くの名言も残した。
 一見すると地味な稽古方法ながら、心道流空手の本質は、まぎれもなくかつての沖縄に存在した護身術そのものであり、今となっては希少価値の極めて高いカラテと思われてならない。(文中敬称略)

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。