沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流
第28回 極真から沖縄空手に魅せられた人びと(下)「石本誠」

ジャーナリスト
柳原滋雄

 極真空手がブームとなった背景として、1971年に連載が始まった劇画「空手バカ一代」の存在を抜きには語れない。この中で準主役の一人として描かれて名を知られるようになった人物に、80年に四国・松山で芦原会館を設立した芦原英幸・初代館長(あしはら・ひでゆき 1944-1995)がいる。相手の攻撃を受け流し側面や背後から反撃する「サバキ」技術を体系化した〝伝説の空手家〟として知られる。今回は芦原会館の内弟子経験を持ち、その後、沖縄空手や合気道を取り入れた沖縄空手道松林流喜舎場塾・英心會館の石本誠館長(いしもと・まこと 1964-)に迫る。

柔らかい動きを重視した芦原館長

 石本館長が16歳で大阪の芦原道場に入門したとき、すでにそこは極真空手の道場ではなくなっていたという。1980年、芦原英幸はさまざまな理由から古巣の極真を離れ、芦原会館を設立した。
 その後、石本は20歳で内弟子を志し、四国・松山市の総本部道場で1年ほど本格修行したものの、家庭の事情で大阪に戻らざるをえなくなり、関西本部で指導するようになった。内弟子出身という経歴もあり、大阪を訪れる芦原からは何かと目をかけられたという。

 松山の総本部は3階が館長室で、2階が道場になっていまして、芦原先生は何か思いついたら2階に下りてきました。当時からおっしゃっていたことの一つは、「剛の空手では柔らかい動きには勝てないぞ」ということでした。

 芦原はそうした話をする際、よく相撲と合気道を例に引いたという。相撲の柔らかいいなし方について語り、また合気道については自身も四国の警察で空手を教えていた関係もあり、警視庁で採用された塩田剛三(しおだ・ごうぞう 1915-1994)の合気道に一目置いていた。

 とにかく、空手は力で行うものではないというのが口癖でした。極真空手は競技としての試合という意味では素晴らしい発展を見せましたが、試合は本家本元の大山(倍達)先生に任せ、芦原先生はそれとは別の、あくなき実戦重視のカラテを目指そうとされたのだと思います。護身として使える空手、さらに稽古において怪我をしない安全な技術としての「サバキ」を体系化され、5つの「組手の型」を考案されました。

 大阪に戻った石本は30歳になるころ、過労で倒れた。父親の介護で1日1時間も睡眠がとれない状態だったという。ちょうどそのころ、師匠の芦原もALS(筋萎縮性側索硬化症)という不治の病に冒され闘病に入った。石本はこのまま空手を続けられるのかどうか煩悶したという。

 どうすれば空手を続けられるのかと考えていたころに、ある先輩から太気拳(中国拳法)の稽古に誘われたこともありました。でも自分の体質には合わなかった。芦原先生の「力じゃないよ」という言葉と、弟子が簡単に真似できなかった芦原先生のすごい動きは、空手の型の中に秘密が隠されているのではないかと考えるようになりました。型を自分なりに探究しているうちに、沖縄に目が向きました。

DVD発売発表会で演武を説明する石本誠館長(2018年3月)

DVD発売発表会で演武を説明する石本誠館長(2018年3月)

 たまたま奥さんが旅行好きだったこともあり、夫婦で沖縄を旅行する機会が増え、そのたびにいろんな道場を見学して回ったという。
 あるとき芦原会館時代の先輩から、「沖縄にすごい空手家がいるぞ」と教えられた。松林流喜舎場塾の新里勝彦塾長(しんざと・かつひこ 1935-)の存在だった。
 その先輩も直接自分の目で見たわけではなかったが、インターネット上の動画を見てそう感じたのだという。だが肝心の連絡先はわからないままだった。

「サバキ」と沖縄空手の融合

 2009年8月、石本は念願の住所を探し当て、新里塾長の自宅(与那原町)を初訪問した。空手道場の看板も何もない。高台にある大きな民家で、アポイントもないまま玄関で呼び鈴をならした。石本はその最初の訪問の際のことが今でも忘れられないという。

 奥様が取り次いでくださいまして、自宅2階の道場に通されました。入門したいとの希望を伝えると、新里先生からナイハンチをやってみなさいと言われました。芦原会館時代にはナイハンチの型はやっていませんでしたので、自己流で練習していた型を見ていただきました。それでなんとか入門を許可していただいたのです。

 突然の〝面接〟は無事に終了した。以来、大阪から毎月のように〝沖縄通い〟が始まった。時間を見つけては2泊3日、3泊4日の日程を確保。ある月は仕事が忙しく、日帰りでトンボ帰りする日程ながら稽古をつけてもらったこともある。そうした熱意に打たれたのか、塾長も必ず「特別稽古」を設定してくれ、マンツーマンの指導が続けられていった。

 最初に道場生たちがピンアンの型を演じるのを見て、瞬時に本物だと確信しました。これこそ自分が求めていたものやと思った。スピードと攻防一体の動きがそれまで知っていたような動きとはまるで違ったのです。

 芦原会館時代は極真流のピンアンを行ってきた石本は、喜舎場塾に入門してからは、自分の道場で教えるピンアンも、沖縄流に変更していった。

 ピンアンは全部いちからやり直しました。それでも「サバキ」は捨てていません。新里先生からも「サバキ」はすごく合理的にできていると言われました。

 師匠であった芦原英幸の空手哲学と、新里塾長の空手には多くの共通項があったこともその後のやりがいにつながったという。

 さらに月に1回の稽古ではもったいないからと、空いている時間を使って合気道の稽古をしてみてはどうかと新里先生に勧められました。そこで合気道を教えてくれる人を探してみたのですが、その結果お願いできたのが塩田剛三先生の高弟であった井上強一先生(合気道日心館館長、1935-2017)でした。

東京で行われた実戦サバキセミナー

東京で行われた実戦サバキセミナー

 この連載の第3回の記事(「『沖縄詣で』重ねる空手家たち(上)」)で紹介しているとおり、喜舎場塾では、①ハードコンタクト、②ライトコンタクト、③ソフトコンタクト――の3段階に分けて技の検証を行う。「柔らかい技でないと実際は使えない」と口にしていた芦原館長の言葉が、そのままクロスする思いだったという。
 ちなみに①のハードコンタクトは、力と力が衝突するいわば筋力同士のぶつかり合いで、剛の空手を意味する。一方、③のソフトコンタクトは、首里手の鍛錬型であるナイハンチの立ち方(ナイハンチ腰)になった際の技で、技のかかり具合がまったく異なる。いうなれば、合気的手法であり、合気道の原理とシンクロする体の使い方ともいえる。
 石本は2018年3月、クエスト社から『究極の護(まもり) サバキ』というタイトルのDVDを上・下で世に問うた。
DVD「究極の護 サバキ」

DVD「究極の護 サバキ」


 その内容は、上記の3段階の技のかかり方が具体的にどのように異なるのかを綿密に実証する内容となっている。
 このDVDには石本の師匠である新里塾頭と、合気道の井上館長も出演。その際、収録で顔を合わせた両師は、合気道の基本動作6本について、新里塾長は「ナイハンチとまったく一緒」と感想を語り、新里塾長の演じるナイハンチの動きを目にした井上館長も「合気が入っている」と語って、それぞれ似通った感想になったという。

ナイハンチ腰の妙味

 繰り返しになるが、先のビデオはナイハンチ腰(=半騎馬立ち)になると、人体の動きや効果がどのように変化するかを実証的に示した興味深い映像作品である。

 ナイハンチ腰をつくると、後ろから押しても動かなくなります。これは耐震構造の原理と一緒です。ナイハンチがすべての基本の動きになる。極論になりますが、空手家としてはこの型をやっていれば、どんなことにも対応できるということです。

 ナイハンチ腰を別の言葉では「腰を抜く」という表現で説明する。腰を抜くと、人間の体そのものが柔体となり、独特の作用の力を持つ。
 しばしば引き合いに出されることだが、沖縄の古伝の型にフルコンタクトでいうところの回し蹴りは一切出てこない。実戦では足を捕まれたら即敗北あるいは死を意味し、相手の腰より高い場所を蹴ることは御法度だ。ハイキックはルールを設定された競技空手の範疇でしか通用しない技とされている。

 私がハイキックを捨てますと言ったら、新里先生からはやりなさい、実戦で使わんかったらいいだけだと言われました。

 その点は芦原館長も同様の考えを持っていたと振り返る。

 芦原先生は「実戦は膝蹴り、肘打ち、頭突きの3つで十分。回し蹴りなんて要らないんだよ」とおっしゃっていました。ただ「ハイキックは実戦では使わないが、軸をつくる練習にはなるのでやっておけ」という指導でした。

 ちなみにフルコンタクト空手などの組手スタイルの一つに、後ろ足に重心を乗せる後屈立ちがある。ただし相手にタックルされると後ろにひっくり返されてしまうため、実戦には役立たない。喜舎場塾では、松林流が重視する「猫足立ち」は、重心を五分五分に置くという。(文中敬称略)

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。