沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流
第26回 極真から沖縄空手に魅せられた人びと(上)「金城健一」

ジャーナリスト
柳原滋雄

 1970年代以降、日本本土を席捲した極真空手――。型よりも組手を重視し、実戦カラテを標榜することで、劇画や映画を通して若者を中心に爆発的なブームを巻き起こした。今回から3回にわたり、フルコンタクト空手を経て沖縄伝統空手に魅せられた3人の空手家を紹介する。1回目は、極真空手がまだオープントーナメントという全国規模の大会開催を行ってまもないころ、沖縄空手の本場から単身で極真に乗り込んだ経験をもつ金城健一館長(琉誠館)に迫る。

防具付き組手にあきたらず極真へ

 金城健一(きんじょう・けんいち 1940-)は沖縄県国頭村(くにがみそん)生まれ。名護高校に入学してまもない16歳のとき、近くにあった中村茂(1891-1969)道場に入門した。中村は「沖縄拳法」と称する首里手系空手の使い手で、沖縄で初めて防具付き組手を導入した人物として知られる。剣道で使うような面や胴を付けて行う組手だった。
 実戦重視の沖縄拳法で修行を積んだ金城だったが、道場内でめきめき上達すると組手の相手がいなくなり、物足りなさを感じていた。高校卒業後、臨床検査技師を志し、福岡県で病院勤務した時期もあったが、名護県立病院に移ったころ、ふと極真空手のパンフレットを目にする機会があった。防具を付けずに実戦で勝負をつけるというスタイルに魅力を感じ、そのことが頭にこびりついて離れなくなった。当時、師匠の中村はすでに鬼籍に入り、沖縄拳法本部道場での指導は金城が担っていた。

琉誠館館長の金城健一さん

琉誠館館長の金城健一さん

 防具付き組手の胴はベニア板を2枚ほど重ねたものだったが、強く打つと割れることもしばしば。なおかつ面を思いきり叩くと指をよく骨折したという。自分なりに組手に自信をもっていた金城は、「当て試合なら自分もやってみたい」と、いてもたってもいられなくなった。
 勤務先の病院にかけ合うと、半年間の休暇をくれるという好意的なものだったが、それでは納まらないだろうと思い切って退職。東京・池袋にある極真会館の本部を目指した。31歳だった。
 道場の受付で来意を告げると、当時、本部道場で指導していたY・Oが出てきた。入門手続きをとることが必要だと言われ、稽古に参加する形となった。そこにはたまたまキックボクサーが道場破りに来ていた。茶帯の道場生が膝蹴りを顔面に入れてあっけなく終わったが、素手素足の攻防での鮮やかなKOシーンを目の前で見たのは初めてで、衝撃を受けたという。Y・Oから「では次にやってみるか」と聞かれたものの、「ちょっと待ってください」と答えていた。
 極真の直接打撃制の魅力に取りつかれ、以来稽古に通う日々が始まった。大山倍達総裁(1923-94)も時折稽古をつけていた時代で、直接指導を受けることもあったという。
 当時の先輩の中で強力な印象を残しているのは、第1回の全日本チャンピオンのT・Y。当時はキックの選手としても活躍していた。夜の稽古が終わるころしばしば本部道場に顔を出し、組手の相手を務めることが多かった。防具付き時代の悪い癖で、ガードが下がっていたところへ、いきなり強力な回し蹴りを入れられて完全に気を失ったことも。その間、フワフワと空の上を飛んでいるような感覚を味わった。
「こら、キンジョー、起きろ!」
 怒鳴り声が右側から聞こえて現実世界に呼び戻されると、声の主は大山倍達だった。

 極真は(沖縄空手と違って)ほとんどが回し技でした。回し蹴り、回し受け。しかも当時の組手は手加減なしで、一発一発がダメージを与える技でやれと厳しかった。だんだん慣れてきて、黒帯の先輩方との組手もそれほど苦にはならなくなってきました。

 3~4ヵ月もすると、技を見切ることができるようになり、先輩の回し蹴りにも対応できるようになった。最初のころは防具付きのクセで、飛び込んで叩けばいいという安易な感覚が残っていたものの、実戦的な組手を体験することでそうしたクセはなくなっていったという。
 そのころ、第3回オープントーナメント(1971年)に出場する本部道場推薦の選手が決定され、大山総裁から金城も指名され、出場することになった。

極真の全日本大会で5位に入賞

極真全日本選手権での金城選手の活躍を紹介した雑誌記事(『カラテ最強の一冊』1996年)

極真全日本選手権での金城選手の活躍を紹介した雑誌記事(『カラテ最強の一冊』1996年)

 今さらながら、第3回全日本空手道選手権大会の入賞者を振り返ると、そうそうたる顔ぶれが並んでいる。
 優勝したのはその後第1回世界大会でも優勝を果たす佐藤勝昭(1946-)、準優勝は大山泰彦(1942-)、3位は独特の回し蹴りで有名な大石代悟(1950-)、4位に三浦美幸(1949-)、そして5位に金城健一の名前が残っている。
 このとき金城は優勝候補の一人に名を挙げられていたが、大石代悟に準々決勝で敗れている。大会では稽古ではまったく使わずに試合用に温存していたボディへの「横蹴り」を多用し、それが面白いように決まった。沖縄空手に特有の直線的な蹴りである。
 初めて出場した全日本で入賞できたことでスペインへの指導員派遣の話が持ち上がり、本人もいったんはその気になったが、沖縄に帰省した際、家庭の事情で行けなくなった。結局、極真に在籍した期間は1年にも満たない限られたものに終わったが、それでも極真時代に得た体験は大きかったと振り返る。

 やはり空手を続ける上で、実戦上の打ち合いは絶対に経験する必要があったと思います。どのくらいの力でどの程度効くのか、どの部分を狙って打てばよいのか。すべて自らの体験なしに身につくものではありません。ですから1~2年くらいの打ち合いの経験は不可欠と考えるようになりました。極真時代は決して無駄なことをやったわけではありません。

 沖縄に戻り地元道場に復帰した金城が始めたことは、自ら極真(フルコンタクト)ルールでの試合を主催することだった。沖縄中の道場に声をかけ、参加者を募った。第1回沖縄実戦空手道選手権大会が開催されたのは81年で、自ら14回開催している。
 自分の弟子たちには「お前は上段回し蹴りを使うな」「上段膝蹴りは厳禁」などとそれぞれに〝禁じ手〟を言い渡し、けが人や死人が出ないようにしたが気が気ではなかったという。それだけ金城の弟子たちが、実戦カラテという点では沖縄の中で際立っていたことを意味する。
 極真流のスタイルが生きているためか、金城の道場ではいまも、挨拶の言葉は「押忍(おす)」だ。

沖縄伝統空手の型を見直す

 とはいえ、沖縄空手から出発し、極真で体験を積み、沖縄に戻ってきた金城にとって、どうしても譲れない一線があった。それは沖縄伝統空手の「型」の存在だった。

これを捨てることはできない。

 例えば首里手系の沖縄拳法にも、極真空手にも、同じピンアンという名称の型があるが内容はかなり異なる。

 極真の場合は、すべて手刀回し受けですが、沖縄空手の手刀受けは回しません。これは大山先生が中国拳法の達人などと手を合わせた際の体験に基づいて変えた部分だと思いますが、その意味では糸洲安恒が創案した本来のピンアンとは異なるものです。型だけは沖縄空手の伝統に従うべきというのが私の考え方です。

 例えば極真の「ピンアンその2」という型は、もともとはピンアン初段のことだ。極真では最初の動作は脇構えで右脇腹に引く動作となっているが、本来は引いたりせずにそのまま両腕による受けに入る。その意味では不必要な2挙動になってしまっている。また、もともとは前蹴りだった部分が横蹴りに改変されるなど、変更されている点は数多い。そのため、型を厳密に追求するのなら、極真空手の型も本来の沖縄空手の型に戻らざるをえないだろうとの考えをもつ。

 技をほんとうに見つめていったら、必然的にそうならざるをえないと思います。崩してはいけないと思います。

 現在、日曜日に指導者クラスを集めて稽古する際は、沖縄伝統空手の型の分解(実際の使用方法)を研究している。それでも極真で学んだ実戦性は沖縄でも十分に必要なものと強調してやまない。

 実際に当てて倒してみないと、当てる恐さはわかりません。自分が一瞬で命を失うかもしれないという本当の恐さがわからないんです。寸止めとか、防具付きでやっていてもなかなかそこには気づきにくい。まして型だけやっていても、それではダンスに近いものであって、実戦に対応できるわけはありません。

 琉誠館は、沖縄伝統空手と極真空手の双方の長所を併せもつ点で、沖縄空手の中ではユニークな立ち位置にある。(文中敬称略)

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。