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画家から生まれた「書物の子」――書評『この星の絵の具 [上] 一橋大学の木の下で』(小林正人著)

美術史研究者
高橋伸城

不意の出会いに備えて

 手のひらにすっぽりおさまる小さな本。白地のカバーに四角い青が浮かぶ。
 著者は小林正人氏。世界的に名の知れた画家である。国際展の中でも古い歴史をもつサンパウロ・ビエンナーレでは、日本代表として作品を展示した。
 長年にわたって色やかたちと徹底的に向き合ってきた一人の画家が言葉を手にしたとき、できあがったのは単なる絵画論ではなかった。それは自然と「小説」の体裁をとった。

 しかし、身構える必要はない。
 無防備なままでいい。

「この星」の青い窓に導かれるまま、ページをめくる。
 そうすれば出会いは不意にやってくる。

真っ白な「最初の画」

 本書の語り手である「俺」は画を描いて暮らしている。
 インターネットもまだ普及していない1980年代のなかばから90年代にかけて、現代美術をなりわいとすることは今以上に難しかった。
 そのような中で画廊と契約を結ぶだけでなく、やがては「ヤン・フート」という著名な人物の目にとまり、ベルギーのゲントに招かれることになる。

 しかし、「俺」の最初の画は真っ白だった。
 それは二度の留年を経た高校3年生のときのこと。
 あこがれの女性から「画、描いてみない?」と誘われたのがきっかけだった。
 絵筆を持つどころか、美術そのものに興味のなかった「俺」は、その女性の裸体を描かせてもらうことを条件として、引き受ける。
 はじめて手にするキャンバスや絵の具。しかし彼を何より驚かせたのは、今この瞬間に眼の前で生きている「この美しいなにか」と、それをうつしとるための道具との間に横たわる隔たりだった。
 どんなにきれいな絵の具も、「この美しいなにか」と重ならない。
 「俺」はついに何も描けないまま筆をおく。
 まさにこの「描けない」ところから彼の画は始まった。

かけがえのないもの

「俺」の描きたいと思う対象は、それがモデルとして実際に眼の前にあろうと、もしくは頭の中にしかなかろうと、この一瞬一瞬を生きている。
 むしろ、何かを目にしたり、呼び起こしたりするこの一瞬にしか生きていないという意味で、それは文字通り、かけがえのないものだった。
 では、絵の具やキャンバスなどの量産可能な物体でそれをどう表現するのか。
「俺」は絵画が絵画としてあるその存在のあり方を問うことで、答えを見出す。

 一般に油絵などを描くときには、あらかじめ組み立てた木枠にキャンバスを張りつけて、ようやく準備が整う。
 舞台が仕上がってから、その上に色やかたちをのせてゆく。
「俺」が揺さぶりをかけたのは、このような画の出生をとりまく秩序だった。

 俺には夢があった。平面に張られた白いキャンバスの前に立ってから描くのでは遅い。張った時はもうそこに描かれてる画。キャンバスを木枠に張ってから描くんじゃない、キャンバスに描いてから木枠に張るんでもない。木枠に張りながら描いてキャンバスと木枠と画をひとつにすることは無理かな……。(p.42)

「キャンバスと木枠と画」がひとつになる。それは「俺」の「心と体」がひとつになることでもあった。
 外枠のできあがる過程がそのまま魂の宿る道筋となる。
 画がかけがえのないものとして立ち現れてくるのはこのときだ。

「書物の子」

 さて、こうしてこの小説の中で画家として活動する「俺」は、著者である小林正人氏その人なのだろうか。
 そう考えても不自然ではない。
 文中で言及される作品や出来事を現実の世界のそれと照らし合わせることも造作なくできるだろう。

 だからといって、それが小林正人という画家の解説になるとは限らない。
 どのように描いてきたのか、その楽屋裏の様子を伝えるのが目的なのであれば、すでに記事やインタビューとして数多く発表されている。

『この星の絵の具』は創作の秘密を明かさない。
 なぜならこの本そのものがすでに創作の実践であるからだ。
 例えば次の文章を読めば、それははっきりするだろう。

 掃除機でガーッとアトリエに溜まったほこりを取ってから、床を雑巾で水拭きして(パレットになってるとこは無理だけど……、綿も床にくっついてるからそのまま)、台所、ステンレスの流しと流し台の、指輪があった辺もクレンザーで磨いたり。窓を拭くと雑巾がヤニで真っ茶色になって……。トイレの便器も磨いて、うんこも拭いて、さっぱりした、きれいになったなあって久々に新しいシーツをアトリエの床に敷いてごろんと横になると春の空が見える。
 白っぽい、なにかを孕んだような水色の空だ。雲が風で少しずつ動いてる空にチリのキラキラと一緒にモーツァルトのシンフォニーが流れていく。(p.52、53)

 物語の輪郭を定めてから書いていたのでは「遅い」。それでは「心と体」はバラバラのままだ。
 キャンバスを木枠に張りながら画を描いたように、著者は原色の言葉を散りばめるそのさなかで本を構成する。
「うんこ」と「モーツァルト」が平然と隣り合うのはそういう場所なのである。

「俺」は自らの描いた作品を「絵画の子」と呼ぶ。
 私はこの小さな本に「書物の子」の産声を聞いた気がした。

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たかはし・のぶしろ●1982年、東京生まれ。エジンバラ大学とロンドン大学で美術史と宗教学の修士を取得。立命館大学博士課程、単位取得満期退学。江戸時代に書や工芸に携わった本阿弥光悦を中心に研究を続ける。