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混沌の魅力 ―― インド・バラナシを訪問

フリーライター
藤澤 正

 公開中のインド映画『ガンジスに還る』(公式サイト)の舞台となったことで、再び熱い視線を集めているバラナシ――。この地を舞台にした日本の文学作品といえば、三島由紀夫の『豊饒の海』、遠藤周作の『深い河』、沢木耕太郎の『深夜特急』が有名だろう。むしろ日本においては多くの場合、バラナシという地名はこれらの作品を通して知られているはずだ。バラナシという名前こそ知ってはいるものの、実際に足を運ぶ人はそう多くはないと思う。(写真:日の出とともに沐浴をする人々)

視覚・聴覚・嗅覚が刺激される街・バラナシ

街中にはあたりまえのように牛がいる

街中にはあたりまえのように牛がいる

 首都ニューデリーから東へ約800km。バラナシ空港に降り立った筆者は、新市街地にあるホテルへ。チェックインを済ませ、すぐにガンジス河畔の旧市街地へと向かった。バラナシを訪ねるのはこれが2回目だ。
 新市街地から旧市街地までは車で30分ほど。旧市街地が近づくにつれ、街中を行き交う人々がだんだんと増えくる。車窓から街並みを眺めていても、人が視界に入らないことは滅多にない。バラナシを含むウッタル・プラデーシュ州には、日本のおよそ3分の2の面積に約2億人の人々が暮らしている。それに加えて、バラナシにはインド中からヒンズー教徒が、世界中から観光客が訪れるというから、交流人口はかなりの数になるだろう。
 人だけではない。街中にはあたりまえのように牛がいる。車道に寝そべったり、ゆったりと身体を揺らしながら移動したりと、その堂々とした立ち振る舞いには貫禄さえ感じる。周知のように、ヒンズー教では牛は神聖な動物とされている。しかし、異邦人である筆者の目で人々の牛に対する態度を観察していると、むしろ誰も牛の存在を気に留めていないように見える。ただそこにいる。それ以上でもそれ以下でもない、とでも言うかのように。
 旧市街地の入口までバスで辿り着くと、その後は機動力の高いオートリキシャ(小型の自動三輪タクシー)に乗り換える。街中には自動車こそ少ないものの、リキシャやオートバイ、歩行者が溢れかえっている。急発進、急停止は当たり前。警笛が鳴り止むことはない。日本の日常に慣れた耳には、これがとにかくけたたましい。しかし、それもしばらくすると耳が騒音に馴染み始める。これだけ人や車両がごった返しているのだ。軽い接触はいつものこと。実際に、筆者が乗るリキシャも何度か他の車両に接触していた。
 リキシャを降り、最後は徒歩でガンジスに向かう。自らの足で歩いてみると、さらに気が付くことがある。何よりもまず、街全体に漂う臭いだ。肌が触れ合うほどの距離にいる人々の体臭、車両から出る排気ガス、そして道路のあちこちに放置されている牛たちの糞――。もはや〝無臭社会〟とも言える東京で暮らす筆者にとっては、バラナシの臭いの洗礼は強烈だった。ただ、はじめのうちこそ常にこの臭いを意識せざるを得なかったが、これも警笛と同じように時間が経てば慣れてくるから不思議なものだ。筆者の場合、帰国後の数日間はむしろ無臭の母国に違和感を抱いた。どことなく物足りないような気さえしてくるのだ。

〝すぐそこ〟にある死

ガートには早朝から人々が溢れる

ガートには早朝から人々が溢れる

 リキシャを降り、10分ほど歩くとバラナシのなかで最も有名なダシャーシュワメード・ガートに到着する。それまでは古い建物に遮られていた視界が急に開け、目の前にガンジスが立ち現れるのだ。
 ガート(階段状の沐浴場)は沐浴をする人や観光客で賑わっていた。沐浴をする女性たちのサリーは色とりどり。観光客は写真を撮ったり、ボートライドを楽しんだりしている。筆者も一隻のモーターボートに乗り込み、川面からバラナシの街並みを遊覧することにした。ガートでは、沐浴をする人の他に洗濯をする人、歯磨きをする人、友人と談笑する人など、それぞれが思い思いに時間を過ごしていた。
 そんな風景の一画に、炎が見え、煙が昇る一帯が現れる。火葬場だ。ここで毎日誰かしらの遺体が焼かれる(普段は撮影禁止。今回は特別に撮影許可が下りた)。敬虔なヒンズー教徒は、ガンジスの川岸にあるこの場所で火葬されることを願っているのだ。
火葬場で焼かれた遺灰はガンジスに還される

火葬場で焼かれた遺灰はガンジスに還される


 バラナシの旧市街地では、葬送のための白い布にくるまれ、担架に載せられた遺体が火葬場に運ばれて行く光景が日常茶飯事だという。ここでは、死が〝すぐそこ〟に存在しているのだ。それはバラナシが特別な聖地だということを踏まえてもなお、日本を含めた私たちの現代社会では〝死〟というものが日常から遠ざけられていることを改めて実感させる。
 バラナシはしばしば、ヒンズー教の深遠な死生観とセットで語られる街だ。その理由は、なによりもまず、この〝死の近さ〟にあるのだろう。

妻とともに死を待つ男性

 今回のバラナシ訪問では、実際に死を待つヒンズー教徒が暮らすムクティバワン(解脱の家)にも足を運ぶことができた。そして、そこで妻と2人で暮らす男性に話を聞いた。
 中庭に植えられた菩提樹の木陰に座る60歳の彼は、バラナシに移住するまでは農業に従事していたという。『ガンジスに還る』の主人公・ダヤと同じように、死期を悟ってここへやって来たのだ。劇中のムクティバワンでは、15日間という滞在の期限が設けられているが、ここでは息を引き取るまで暮らすことができる。実際に、最も長く暮らしている女性は今年で18年目になるそうだ。

ムクティバワンに暮らす男性

ムクティバワンに暮らす男性

「死を待つ」と聞くと、多くの人はどことなく〝生〟に対して消極的なイメージを抱くかもしれない。ところが、実際にムクティバワンを訪問して、そこで暮らす人を目の当たりにしてみると、それが先入観であったことに気付かされる。
 特に印象的だったのは、生気に満ちた彼の瞳だった。ヒンズー教徒にとっての解脱、すなわち最上の幸福を自らの手につかみ取るため、彼らはむしろ積極的に〝死〟を待っているのではないかと、筆者には感じられた。
 ムクティバワンで暮らす人々の日常はとてもゆったりとしている。そんな生活を「隠遁生活」だとか「老後の生活」と見てしまうことは、むしろ見る側の死生観の浅薄さの表れのようにも思う。ムクティバワンには、賃金は発生しないものの炊事や洗濯といった労働がある。もちろん人間関係もある。であるならば、喜怒哀楽などの感情や悩みが消えることもないだろう。つまり、この場所にはこの場所の日常があるのだ。ムクティバワンで暮らす彼らは、彼らなりの日常を生きながら、死を待っているのだ。

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臨終をめぐる家族の物語——インド映画『ガンジスに還る』