ナショナリズムを超克する価値観を――書評『北東アジア市民圏構想』

ライター
本房 歩

激動した北東アジアの1年

 2018年は、北東アジア情勢がひときわ大きく動いた年として歴史に記憶されるだろう。
 北朝鮮のミサイル実験が執拗に繰り返され、日本の各地でもJアラート(全国瞬時警戒システム)による避難訓練が続くなかで、年が明けた。
 米国本土に到達するICBMが完成するまでに、トランプ政権が北朝鮮を奇襲攻撃・制圧するのではないかという観測もあった。
 ところが、2月9日から韓国ではじまった平昌(ピョンチャン)オリンピック冬季競技大会に、北朝鮮は選手団を派遣。金正恩(キム・ジョンウン)委員長の妹である金与正(キム・ヨジョン)氏が訪韓して〝ほほえみ外交〟を展開する。
 統一旗のもとに南北合同チームが熱戦を繰り広げたことは、韓国世論、とりわけ若者たちの意識を変えた。
 4月27日には板門店(パンムンジョム)で文在寅(ムン・ジェイン)大統領と金委員長による南北首脳会談が実施され、6月12日にはシンガポールで、史上初の米朝首脳会談が実現した。
 文大統領は9月には平壌(ピョンヤン)を訪問して2度目の首脳会談をおこない、

朝鮮半島の全地域で戦争を起こさせるあらゆる脅威をなくすことで南北は合意した

と明言した。
 一方、中国では3月の全人代で憲法改正案が承認され、それまで2期10年までとされていた国家主席の任期上限が撤廃された。
 一帯一路構想を掲げて影響力を強める中国に対し、貿易赤字が膨らむ米国のトランプ政権は関税措置を強化。米中の〝貿易戦争〟のヒートアップは、現実の戦争にさえ発展するのでないかとの危惧が募っていた。

〝切り捨てられた側〟からの反発

 本書『北東アジア市民圏構想』は、奇しくもそのような北東アジアの激動の年に、約半年を費やしておこなわれた対談である。金惠京(キム・ヘギョン)は韓国生まれの国際法学者。佐藤優は外務省の元主任分析官という経歴を持つ作家である。
 書名ともなった対談のテーマ、すなわち「北東アジア市民圏構想」は金の提案によるものだ。
 対談がはじまった2018年1月は、前述したようにまだ朝鮮半島情勢は緊迫しており、南北首脳会談さえにわかに実現するとは考えられていなかった。まるで対談の進行に並走するかのように、北東アジア情勢も激動した。
 本書は全部で4章からなる。第1章は「北東アジアのデモクラシー革命」。
 金が対談全体のタイトルを「北東アジア市民圏構想」とした背景には、世界全体で独裁的な傾向が目立ち、力による介入やテロが続いていることへの問題意識がある。

 民主主義がうまく機能しなくなると、丁寧な議論が遠ざけられ、マイノリティの人たちの声が社会に届かなくなります。切り捨てられ、声が社会に届かなくなった人たちが連携していくことが、これからの北東アジアにとって非常に大事だと私は思っています。(金)

 韓国で朴槿惠(パク・クネ)政権が弾劾され文政権が誕生した背景には、朴槿惠が独裁的傾向を強めていたことに対する〝切り捨てられた側〟からの反発があったと金は指摘する。
そして、米国で「プア・ホワイト(白人低所得者)層」がトランプ大統領を誕生させたことと引き比べて、朴とトランプのパーソナリティに近いものを感じると語る。
 同時に、トランプのポピュリズム的手法は一概に「民主主義の敵」と見なされるべきではなく、政治に無関心だった層を選挙に向かわせ、政治にかかわる意識を生み出した〝功〟の面も併せもっていると金は見ている。
 弁護士であった文在寅が、大統領の座を獲得し、政策を遂行するうえで、原則主義とポピュリズムの2つの面を見せていることに対する金と佐藤それぞれの見立ては、なかなか興味深い。
 この章で佐藤が強調することのひとつが、ポピュリズムとナショナリズムの結びつきやすさであり、民主主義もまた容易に独裁やファシズムに転化し得るという危うさについてである。
 そうなると、北東アジアの人々を連帯させる軸は何になるのか。この金の問いに、佐藤は「ナショナリズムに吸収されない民主主義」の構築という課題を語る。

 民主主義が「ナショナリズムを超える価値観」になり得るかといえば、おそらくなり得ないでしょう。民主主義のいちばん難しいところは、代議制民主主義をとるとナショナリズムと結びつきやすくなるという点にあるからです。その危険性を回避するためには、民主主義以外の行動原理を持つことが必要になる。それを「世界市民主義」と言ってもいいでしょう。(佐藤)

民衆の苦しみを共有するもの

 第2章「朝鮮半島の過去・現在・未来」で、とくに両者が重視するのは「北朝鮮の民衆を思う心」である。
 北朝鮮の人々にも、私たちと同じ人間として、一人一人の個性があり、喜怒哀楽があり、日々の暮らしがある。北朝鮮について論じられる際、このあたりまえの認識が、往々にして抜け落ちている。

 北朝鮮の民衆が苦しめば苦しむほど、北東アジアの平和は遠ざかるのです。
 言い換えれば、日本と北朝鮮、韓国と北朝鮮の経済的相互依存度が高まったほうが、平和に結びつくということです。日本と中国の関係は、その一つの手本だと思います。(佐藤)

 ここで再び金は、たとえば北朝鮮の民衆の苦痛や悲しみを共有し、北東アジア全体を結び得る理念は何になるのだろうかと問う。
 ロヒンギャへの迫害に見られるように、宗教や民族はかえって人々を分断する壁として作用するのではないか。やはり民主主義こそが重要なのではないか。
 この金の問いに、佐藤はこう応じる。

 金先生が先ほど指摘されたように、宗教がむしろ人々の分断を促進してしまう場合もあります。それは私も重々承知で、宗教なら何でもいいと言っているわけではありません。民主主義を支える価値観になり得るためには、「世界宗教」でなければならないのです。(佐藤)

 さらに佐藤は、仏教、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教のなかにも排外主義的な教派もあれば、コスモポリタニズム(世界市民主義)と親和的なグループもあると指摘。
 民主主義の脆弱性を補う意味でも、すべての人間と生命を尊重する価値観を人々に育むエキュメニカルな世界宗教の重要性に重ねて言及する。エキュメニズムとはキリスト教における教派を超えた世界教会主義のことだ。

 どの宗教がいい・悪いということは一概に言えない。各宗教の中のエキュメニカルなグループ同士が手を組んで、ネットワークを広げていくことが大事なのです。(佐藤)

安倍政権の危うさへの警鐘

 第3章「日本政治の課題解決に向けた方策」では、長期化している安倍政権が独裁化する危うさについても、容赦のない率直で真摯な議論が交わされる。
 朴槿惠の父親であり「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれた高度経済成長を韓国にもたらした朴正煕(パク・チョンヒ)政権の強権的な手法と、安倍政権に通じ合う危うさが、「満州国」との関係を踏まえて語られている。
 また、ヘイトスピーチを蔓延させ、北朝鮮の脅威を声高に叫ぶことで国民の支持を集めようとする今の自民党の手法は、朴正煕と共通していると両者は警鐘を鳴らす。
 公明党はこうした自民党の手法に対していかなる姿勢なのかと問う金に対し、佐藤は連立パートナーとしての表面上の態度とは別に、公明党の北朝鮮政策の根幹には、支持母体である創価学会の「核廃絶」への強い意志があることを見落とすべきではないと指摘する。
 金と佐藤は、韓国と沖縄に向けられた差別のまなざしにも通じ合うものを見る。それまで外交官として、ホワイトハウスやモスクワ、永田町を世界の中心であるかのように考えていたという佐藤は、東京拘置所のなかで読んだ沖縄の古代歌謡に触れて、世界を見るまったく新しい視点を得た。
 佐藤は沖縄を「天皇神話に包摂されない領域」なのだと語る。

 少し強い言葉を使えば、沖縄はいまだに「国内植民地」なんですよ。言い換えれば、沖縄問題はその本質において「民族問題」なんです。だから日本政府は、沖縄は日本という同じ国家に所属してはいるけれど、自己決定権を持っている民族集団であるという意識を、やはり持たなければならない。(佐藤)

 だからこそ、沖縄への差別は振興策という経済で埋められるものではない。なによりも本土の人々と沖縄の人々とが相互理解への努力をし続けることでしか埋まらないのだ。この佐藤の指摘は重要である。

非核化への六者協議を日本で

 第4章「北東アジアを結ぶ思想と民主主義」では、冒頭から南北首脳会談、米朝首脳会談をめぐって日本外交が犯したミスについて語られる。トランプの出方への見誤りであり、文在寅政権の外交能力への過小評価である。
 結果的に蚊帳の外に置かれた日本がミスを挽回するためには、日本が主導する形で、東京で「非核化への六者協議」を開催することだと佐藤は示す。
 金は、南北首脳会談が「平和」をキーワードに歴史的な「板門店宣言」にこぎつけた背景に、「戦争の惨禍への危機意識」と「分断の負担解消」への、同じ民族としての南北共通の思いがあったと語っている。
 トランプが「非核化の費用は日韓が支援するだろう」と発言したことについても、金は積極的な発想を促す。

 日本と韓国はすでに北朝鮮のミサイル射程内に入っていますから、両国こそ北朝鮮の非核化を最も切実に望んでいると言えます。だからこそ、非核化の費用を負担することは、日韓が非核化協議の枠組みに入るチャンスと捉えるべきなのです。(金)

 南北朝鮮半島、中朝、米朝の首脳会談が実現しているなかで、日本はいまだ金正恩との首脳会談を実現できていない。その意味でも、日本が非核化の費用負担に応じることは、朝鮮半島の非核化と平和に日本がコミットする好機になるというのである。

「人間である」という共通項

 さて、このように半年にわたる両者の対話は、リアルな北東アジア情勢の歴史的転換を目撃する形で進められた。
 金惠京が終始、強い問題意識として掲げ続けたのは、常に戦争と核の脅威にさらされ続けてきた北東アジアの民衆の「平和を願う」心である。
 いくら民主主義を制度化し、命や平和の重要さを語っても、それだけでは現実の政治がはらむ危うさを抑えることができない。
 そのためにも、

 そうした政治を実現できる政治家を選挙で選ぶために、市民一人ひとりが常に学び続けなければならないのです。(金)

と切実な思いを吐露する。
 対する佐藤が重要なものとして最後まで強調するのは、「ナショナリズムを超克する価値観」である。
 じつは対談で佐藤が、きわめて抑制的な紙幅に留めながらも、その大きな可能性として繰り返し言及したのが、各国に多くの会員を持つSGI(創価学会インタナショナル)の存在であり、池田大作SGI会長の「人間主義」の思想だった。

 異なる人々を結ぶ根源的な力になり得るのは、民主主義の土台になり得る「人間主義」、万人を平等に価値あるものと見做す普遍的価値観だと思います。(佐藤)

 私がここで言う「人間主義」は、自然を含むすべての生き物への慈しみを根底に置いた「人間主義」です。そしてそれは、創価学会の池田名誉会長の「人間主義」を念頭に置いています。
 そのような、「生命の尊厳」を重視する人間主義であってこそ、民族も体制もイデオロギーも異なる北東アジア各国を結ぶ紐帯になり得る。どんな違いがあっても、「人間である」という共通項は必ずありますから、その最大の共通項に目を向けていく思想が人間主義なのです。(同)

 周知のように佐藤はプロテスタントであり、金はカトリックである。北東アジアの平和を実現する市民圏の可能性を論じ合うなかで、要所要所、そのプロテスタントの佐藤がカトリックの金に対して、池田思想の卓越性と可能性を諄々と説く。
 では、この人間主義の哲学を、核の脅威、それぞれの体制が隠し持つ政治の暗部や打算、ポピュリズムに流されがちな大衆といった現実のなかで、どのように開花させていけばよいのか。単に政権批判の言葉だけを呪詛のように繰り返していれば済む話なのか。
 朝鮮半島に歴史的な変化が訪れる一方で、米中の対立構造には戦争の危機さえつきまとう。戦争を回避し、民衆の幸福を実現する手立てをどう構築するか。
 読者は、2人と共に責任を背負う意志をもって、これらについて真剣に思慮しなければならない。

 私は、この本を記憶が薄れてしまったら読まれなくなる時事評論ではなく、重大な出来事の本質を佐藤さんと語り合う場にしたいと思ったのです。(金惠京による「はじめに」)

 本書は、この金の意図に十分こたえるものに結実したと言ってよい。2人の著者と語り合う気持ちで、何度も繰り返し読むべき1冊だと思う。

『北東アジア市民圏構想』特設ページ

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