連載エッセー「本の楽園」 第62回 金時鐘の戦い方

作家
村上政彦

子供のころ、実家から少し離れたところに青谷(あおだに)という土地があった。町の人々は、あまり近づこうとしなかった。その土地をめぐる怖い噂もあって、なかへ入ると、容易に出ることのできない、異世界のような印象もあった。
中学に入って、青谷の子供と友達になった。恐る恐る行ってみると、ちょっとした山のなかに、木造の古びた平屋がぽつぽつと並んでいる、静かな土地だった。僕らの住んでいるところと、ほとんど変わらなかった。拍子抜けするほどだった。
そこには朝鮮人と呼ばれる人たちが暮らしていた。僕は、なぜ、彼らが集落をつくっているのか、もっというと、朝鮮人という人々が日本にいるのか、それが分からなかった。
中学の社会科の授業では、韓・朝鮮半島が日本の植民地だったことを教わったのかも知れない。しかし少なくとも植民地とは何か、植民地と宗主国の関係はどういうものか、詳しくは教わらなかった。
29歳である文芸誌の新人賞をもらって作家デヴューし、自分のテーマを手探りするなかで、アジアの歴史にたどりついた。韓・朝鮮半島、台湾、満洲など、かつての大日本帝国が植民地、あるいはそれに準ずる扱いをした国や地域について調べ始めた。
そこでようやく、なぜ、日本に朝鮮人といわれる人々がいるのか分かるようになった。僕が子供のころに可愛がってくれたホルモン屋のおばさんが、自嘲気味の口調で、「わたしら人間がちがうからな」といったことの意味も分かった。

詩人・金時鐘(キムシジョン)が自分の半生を語った自伝『朝鮮と日本に生きる――済州島から猪飼野へ』には、この歴史がくっきりと刻まれている。彼は、同化政策の行われていた朝鮮にあって、日本語で日本式の教育を受けた。生まれ育った朝鮮の言葉や文化からは距離があり、立派な日本人になりたいと願った。
第二次大戦の戦況が激しくなりつつあるころ、まだ少年ながら従軍を望んで学校へその旨を伝えたが、すぐに父親が断りに行った。「一人息子を死なせるわけにはいかない」と。教師は、「なんちゅう父親だ」と罵った。
昭和20年8月15日は17歳で迎えた。玉音放送で日本の敗戦を知ったとき、地の底に吸い込まれるような衝撃を受けた。この日を朝鮮では、「解放」の日としている。彼は、日本人ではなくなった。
ところがハングルを書くことさえできない、朝鮮人だった。彼の生まれた土地は朝鮮本土ではなく、済州島だった。ここで国を民主化する活動に携わった。それは左翼運動だった。
金時鐘は、やりきれない光景を眼にする。米軍政の側は、左翼運動を制圧するため、日本の植民地化で機能していた行政・警察などの仕組みを踏襲し、かつて日本の協力者として働いた親日派の朝鮮人たちを使った。
つまり、主人が、日本からアメリカに変わっただけで、社会の在り方は何も変わらなかったのだ。
金時鐘は失望して、過激な左翼活動にのめりこんでいく。そこで起きたのが、犠牲者が3万人とも5万人ともいわれる済州島での惨劇だった。ここは自伝のピークだが、詳細は本書を読んで欲しい。
金時鐘は、身に危険が迫って、父親の奔走で密入国船に乗って大阪へ逃れた。ここで彼は、詩人の小野十三郎(おの・とおさぶろう)の著作と出会って、日本語で表現することの根拠を与えられた。運命的な出来事だった。
一方、朝鮮本土では、朝鮮戦争があった。これは南北朝鮮の戦争のように思われているが、実際には北朝鮮と米軍の戦争だったという。しかも戦争を引き起こす原因には、日本の植民地支配が終わったあと、イギリス、アメリカ、ソ連、中国の4ヵ国で信託統治するという体制の軋みがあった。
つまり、朝鮮戦争は日本の植民地支配の残務処理をめぐって行われた戦争ということができる。そのとき、日本は米軍の補給基地として十二分に働いた。日本の米軍基地がなければ、米軍は戦争を遂行することができなかった。日本は幾重にも南北朝鮮の文壇に関わっている。
日本での金時鐘は、北朝鮮の支援活動に関わる。そこでは日本語での表現を抑圧されて、批判を受けた。しかし彼は、北朝鮮の政治的な方向性に失望もし、日本語で表現することを選んで、北朝鮮とは訣別することになった。
朝鮮人の詩人として、日本語で表現することは、彼にとって、日本の植民地支配という歴史を記憶することであり、日本語への報復でもあった。しかし彼は、「日本人は優しい人々だ」という。
また、在日朝鮮人の実存が、南北朝鮮を統一するための場であるともいう。金時鐘は、彼なりの戦い方で、自分の運命と戦い続けてきた。そのありさまは、読み手の心を震わせる。分かりやすい言葉でいえば、「感動」させられるのだ。

お勧めの本:
『朝鮮と日本に生きる――済州島から猪飼野へ』(金時鐘著/岩波新書)


村上政彦 むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。