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沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流 第17回 しょうりん流(1)首里地域の伝統武術「首里手」

ジャーナリスト
柳原滋雄

首里士族の伝統武術として受け継がれる

 首里城裏手の小高い丘の上にある崎山公園。那覇市から港にかけて一望できるこの公園の一角に2018年7月、首里手(しゅりて)の先駆者たちの名前をしたためた顕彰碑が設置された。
 表には「空手古武術首里手発祥の地」と金彫りされ、10人の空手家の名前が刻まれている。生まれの早い順に並べると次のようになる。

①佐久川寛賀(1786-1867)
②松村宗棍(1809-1899)
③多和田真睦(1814-1884)
④安里安恒(1828-1914)
⑤糸洲安恒(1831-1915)
⑥屋部憲通(1866-1937)
⑦船越義珍(1868-1957)松濤館流
⑧花城長茂(1869-1945)
⑨喜屋武朝徳(1870-1945)少林流・少林寺流
⑩知花朝信(1885-1969)小林流

 いずれも首里手というよりは、空手の歴史そのものを象徴するような人物ばかりだ。

崎山公園内に設置された「首里手発祥の地」の顕彰碑

崎山公園内に設置された「首里手発祥の地」の顕彰碑

 糸洲安恒(いとす・あんこう)は空手を沖縄の教育に取り入れた功労者として知られ、船越義珍(ふなこし・ぎちん)は沖縄空手を初めて本土の東京で普及させ、全国、世界へと広がる土台を築いた人物としてすでに紹介した(第5回、第6回)。
 また屋部憲通(やべ・けんつう)と花城長茂(はなしろ・ちょうも)は糸洲の師範代として、学校教育への普及に尽力したことで知られる。
 糸洲安恒の師匠に当たるのが松村宗棍(まつむら・そうこん)で、多くの弟子を育成したことなどから、松村は「首里手の始祖」とみなされることが多い。
 その松村の師匠と推定されているのが佐久川寛賀(さくがわ・かんが)だ。佐久川は「唐手(トゥーディー)佐久川」の異名をもつ当代きっての達人であり、文献上、最初に「唐手」が出てくるのはこの人物をもって嚆矢とする。
 佐久川も、その弟子とみられる松村も、琉球王府に仕える首里士族の一員であり、上記の功労者はすべて、首里城近辺で生まれ育った共通項をもっている。
 すでに知られるように、空手の流派は大きく首里手と那覇手に二分される。文献上、首里手は沖縄において少なくとも200年以上の歴史をたどれるもので、実際はそれ以前にも多くの武人の系譜が存在したはずだ。
 その意味では、沖縄伝統空手の中では、もっとも土着の伝統を長くもつのが首里手と言える。
 首里手は現代においては、しょうりん流(小林流、少林・少林寺流、松林流)として継承されている。

世界最多の愛好者をもつ首里手

 顕彰碑の裏側には「唐手佐久川生誕232年」の文字も記されている。さらに、「御茶屋御殿」「首里崎山町4丁目60番地」「琉球国王の武術鑑賞と稽古場とした所。武芸百般の催しと迎賓館」の文字があり、当時の建物が描かれている。
 首里城の裏側に位置するこの地は、武芸を磨いた伝統的な場所という意味合いがある。
 さらに「泡盛酒造所のある首里三箇村は、麹の香り漂う静かな町。多く武人たちがここに集い武術の稽古をし、後世に名を残した武術家が生まれた」と説明書きがなされている。
「首里三箇村」とは、首里城の南と東に位置する現在の首里鳥堀町、首里赤田町、首里崎山町のことで、歴史上、この地域から多くの武人を輩出した。
 大部の『沖縄空手道の歴史』(新垣清著、2011年)でも、「松村宗棍、糸洲安恒、船越義珍の3名が歴史上に登場しなければ、空手が現代まで存在していたのかどうかの疑問がわく」と指摘している。

松村家の墓に併設されている宗棍に関する碑文

松村家の墓に併設されている宗棍に関する碑文

 西暦1900年をすぎて、沖縄の地で空手が初めて学校教育に取り入れられようとしたとき、当然ながら、子どもたちに首里手を教えるのか、那覇手を教えるのかの議論がなされた。当時の那覇手の武人としては東恩納寛量(ひがおんな・かんりょう)がいたが、東恩納はサンチンを開手(貫手)で行っており、子どもに教えるには危険すぎるなどとみなされ、首里手が採用されたようだ。
 糸洲安恒が首里手の代表型であるクーサンクー、パッサイなどから動作を抜き出し、教育用の型として、ピンアン初段から5段までの5つの型を創作したことは有名である。
 いま世界の空手愛好家でもっとも多く鍛錬されているのが、この首里手系統の空手である。
 いつごろからか文献上は定かでないが、琉球には「手(ティー)」と呼ばれる独自の武術が存在し、中国(特に福建省)から幾波にもわたって中国武術が伝来し、沖縄土着の武術と融合し、独自の武術が形成されたとはよく言われることである。
 琉球は古来、中国と良好な外交関係を保ち、文化的に密接な結びつきをもっていた。そのため琉球政府の担い手である首里士族は、中国の公式な立場の武術家とも定期的に交流する機会があったようだ。
 その結果、沖縄に伝わる古流の空手の型の名称は、その多くが福建語由来の中国語のものであり、沖縄土着のものとみられる名称はほぼ存在しない。その点は、空手と車の両輪として発達した棒やサイなどの古武道の型が、琉球土着の 人名、屋号、地域・部落名を多く型名として残している事実と対照的である。
 もともと自己を守るための術として発達した沖縄空手と比べ、素手だけでは自身を守り切れず、身近な道具を使って守る術を身につけようとしたなごりが古武道とも言える。

現代に伝わる沖縄しょうりん流

 松村宗棍から糸洲安恒へと伝わった首里手の歴史は、その後、主に喜屋武朝徳(きゃん・ちょうとく)と知花朝信(ちばな・ちょうしん)によって現代に伝えられることになった。

首里手は「知花朝信」(写真右)と「喜屋武朝徳」(写真左)の系譜に受け継がれた

首里手は「知花朝信」(写真右)と「喜屋武朝徳」(写真左)の系譜に受け継がれた(「空手会館」の入り口に設置されたパネル)

 知花は自らの手で小林流を創設し、その弟子たちが現在の小林流の各派をつくっている。
 喜屋武朝徳は自ら流派名をなのることはなかったが、その弟子たちが少林流・少林寺流をなのり、現在に至っている。また松林流も、喜屋武に一時期師事した長嶺将真(ながみね・しょうしん)が創設した、沖縄空手においては比較的新しい流派である。
 いずれも「小林」「少林」「松林」と文字は異なるものの、すべて「しょうりん」と呼ばせるところに特徴がある。
 通常は紛らわしいため、「こばやししょうりん流」や「少ないしょうりん流」「まつばやし流」などと呼ぶことが多い。

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。