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沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流
第7回 「空手の日」が制定されるまで

ジャーナリスト
柳原滋雄

構想から25年かけて実現

 沖縄県議会で「空手の日」が制定されたのは2005年3月のことだった。【10月25日】を「空手の日」とすることが決議された際の文章は、

 はるか700年のいにしえ、空手はこの地・沖縄で生まれた

の一文で書き起こされ、世界の空手人口がおよそ5000万人と推定されること、沖縄の文化でこれほどまでに広範な広がりを持ち、世界中の人々に影響を与え親しまれている文化はほかにないことなどが書き込まれている。
 県知事は稲嶺恵一の2期目の時代で、稲嶺は知事に当選する直前まで沖縄空手界4団体の一つである沖縄空手道連合会の会長職(第2代)を務めていた。それだけでなく、稲嶺の父親は学生時代、東京で「日本空手道の父」とうたわれた船越義珍の直弟子として空手修行をした経歴をもっていた。
 その稲嶺が知事の時代に、沖縄空手道連合会から「空手の日」制定を求める陳情書が県議会に提出され、県議会文教厚生委員会による提案という形で、全会一致で決議は可決されている。このとき文教厚生委員会の委員長を務めていたのは、現公明党沖縄県本部長の金城勉だ。
 県議会の議事録によると、金城県議が【10月25日】を「空手の日」と定める決議に関する提案理由を説明し、成立している。
 沖縄空手道連合会が2016年に発刊した『沖縄県空手道連合会25年史』によると、「空手の日」を制定する構想は1990年、沖縄空手道懇話会(沖縄空手道連合会の前身組織)設立の際の方針の1つとして定められ、2000年ごろから具体的な取り組みとして着手した。03年にプロジェクトチームの設置を決め、本格的な資料収集と調査に乗り出し、最終的に以下の3つの候補日に絞られた。

・「空手が県指定無形文化財となった日」
・「空手という表記が初めて登場した日」
・「空手の呼称が『空手』として統一された日」

 最終的に3番目の案が採用されることになったというが、出典となったのは、地元紙『琉球新報』の1936年(昭和11年)10月に連載された当時の空手家による座談会記事だった。
 それは「手(ティー)」や「唐手(トゥディー)」などと表記や呼称がバラバラな状態を解消し、「空手」の文字で統一することを合議した内容となっている。この座談会は琉球新報社主催で那覇市の昭和会館で同年10月25日に行われたものであったことから、連合会はこの日を「空手の日」とすることを、2005年2月の新春のつどいで発表した。
 その場には来賓として、前述のように現職知事で同連合会の歴代会長をつとめた稲嶺恵一とともに、当時那覇市長だった翁長雄志(現沖縄県知事)も同席している。
 翌月には決議が採択される運びとなるが、90年から数えて四半世紀の努力が実った形となった。

反中国感情から「唐手」を捨てる

 1936年、当時の沖縄空手家による座談会記事が掲載されたのは10月27日。座談会の参加メンバーには、そうそうたる顔ぶれが並んでいる。

花城長茂(はなしろ・ちょうも 1869~1945)
喜屋武朝徳(きゃん・ちょうとく 1870~1945)
本部朝基(もとぶ・ちょうき 1870~1944)
知花朝信(ちばな・ちょうしん 1885~1969)
許田重発(きょだ・じゅうはつ 1887~1968)
宮城長順(みやぎ・ちょうじゅん 1888~1953)
城間眞繁(しろま・しんぱん 1891~1957)
の7人のほか、
空手研究家の仲宗根源和(なかそね・げんわ 1895~1978)

そのほか琉球新報や行政関係者などが列席していた。

『琉球新報』の座談会で「空手」と表記することを確認して間もないころの沖縄拳聖たち。前列左より、喜屋武朝徳、屋部憲通、花城長茂、宮城長順、後列左より城間眞繁、真栄城朝亮、知花朝信、仲宗根源和の面々。1937年3月に撮影され、翌年発刊の仲宗根源和編『空手道大観』に掲載された。

『琉球新報』の座談会で「空手」と表記することを確認して間もないころの沖縄拳聖たち。前列左より、喜屋武朝徳、屋部憲通、花城長茂、宮城長順、後列左より城間眞繁、真栄城朝亮、知花朝信、仲宗根源和の面々。1937年3月に撮影され、翌年発刊の仲宗根源和編『空手道大観』に掲載された。

 ちなみに上記の空手家では、喜屋武朝徳は少林流・少林寺流の元祖・宮城長順は剛柔流、知花朝信は小林流のそれぞれ開祖となった人物だ。また、花城長茂は糸洲安恒(連載5回目を参照)の師範代として沖縄県立中学校で空手指導をした人物として知られる。
 座談会では、それまで「唐手」と表記することが多かったカラテについて、「最近は東京では空手が流行しております」との新聞社側の発言に始まり、空手研究家の仲宗根源和が

 唐手という文字を用いますと、今日の大学生や中学生には反感が起こり面白くないのであります。

と説明。城間眞繁も中学校の生徒を指導している体験から、

 唐手の文字は生徒は喜ばないので、私は拳法と書いてカラテと読みました。

などと語っている。
 城間はさらにその上で、

 武器を使用しない武道という意味から空手と書くのがよいと思う。

と述べ、新聞社の太田社長が

 空の字を嫌いな者はいないが唐の字は嫌いだという人がある。

とダメ押しの発言を行っている。
 この座談会が行われた1936年といえば、翌年には盧溝橋事件を皮切りとする日中戦争が始まっており、反中国感情が国内世論として高まっていた背景に留意する必要がある。
 沖縄では長年の歴史的経緯をもとに当時「唐手」と称していたが、本土で空手普及が進んだこともあってか、そうした表記が時代の空気に合わなくなっていた。

           ※

 2005年3月29日、沖縄県議会で「空手の日」が承認された。この動きはその後の沖縄伝統空手界の統一団体「沖縄伝統空手道振興会」の設立(2008年)、さらには「沖縄空手会館」の建設完成(2017年)へとつながっていった。
【10月25日】の「空手の日」を記念する演武祭は、前後の日曜日などを使いこれまで4回開催された。特に2016年の記念演武祭では、「最多人数による空手の型」の挑戦が行われ、那覇市最大の繁華街である国際通りを使って集団型演武を行い、3973人が参加認定され、ギネス世界記録を更新した。

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。