連載エッセー「本の楽園」 第1回 ショーペンハウエルの読書の腕前

作家
村上政彦

 石川淳がエッセーで書いているのだけれど、かつて中国の文人・黄山谷が、士大夫(知識階級)は3日読書をしないと、顔が醜くなり、言葉にも味わいがなくなると言っているらしい。
 かれらにとって読書は、一種の美容術でもあり、文章とは酒や山水で服するものだったという。黄山谷は北宋時代の人だから、時代のせいもあるのかも知れないが、何とも優雅な話で、大陸の文人たちの余裕を感じさせる。
 小さな島の日本になると、少し事情が違ってくる。こちらは大いに時代が関係しているだろう。幕末から維新に活躍した福沢諭吉は、若い頃にどっさり読書をした。たいていが洋書で、先進的な文明を誇っていた西洋の知識を得るためだった。
 かれの読書の姿勢はすさまじい。終日、辞書を片手に洋書を「読み砕く」。深夜になって眠くなれば、その場で横になり、空が明るくなると、また書物に向かう。だから家には枕がなかった。西洋の学問を身につけなければ、国としてサバイバルできない、という危機感がもたらした、武器としての読書ともいえる。
 これはどちらが正しいというのではない。読書の効用の幅広さと受け止めたい。

 この『本の楽園』では、ヨミリエ・ムラマサ(僕です)が、毎回おいしい本を取り上げて、読むことの愉しさ、歓びを伝えたいと思っている。そこで第1回のテーマとして「読書」を選んだ。
 読書は、ただ受容するだけの消極的な行為ではない。もっと創造的な営みだ。実は、書かれたテキストは完成品ではないのだ。たとえていうなら、それは楽譜であり、読み手は演奏家である。テキストを手掛かりにして、読み手の心の中に奏でられるもの――それが完成した〝本〟だ。だから読み手が100人いれば、ひとつのテキストが100通りの〝本〟となる。読み方に正誤はない。ただし、巧拙はある。

 さて、読書論の古典といえば、ショーペンハウエルの『読書について』だろう。かれはこの著作で、おもに読書の心構えを説いている。いわく、

「本を読む場合、もっとも大切なのは、読まずにすますコツだ」

 おやおや、読書の勧めではないのか、と読者は混乱するかも知れない。いや、哲学者だから、ちょっとひねって、逆説的な言い方をしているのか。違う。しごくまっとうな意見なのだ。
 かれは続けていう。

「良書を読むための条件は、悪書を読まないことだ。なにしろ人生は短く、時間とエネルギーには限りがあるのだから」

「古人の書いたものを熱心に読みなさい。まことの大家を」

 つまり、だらだらとくだらない本を多読するのではなく、選りすぐりの、読むべき本を読め、と述べているのだ。

「重要な本はどれもみな、続けて二度読むべきだ」

 そして、読んだら、きちんと内容を消化して、反芻し、自分でもじっくりと考えないと、血肉にはならない。
 良書を選んで熟読玩味し、著者の考えを触媒にして、自分の考えを発展させてこそ、本当の意味で読書をしたといえるのだ。読書は他者との対話なのだ。これは、すぐれた読み方である。

 もうひとつ読書論の古典を紹介しよう。M.J.アドラー、C.V.ドーレンの『本を読む本』だ。『読書について』が、正しい意味での読書とするなら、こちらは読書といえる。おもに読むための技術を説いている。
 この本が参考になるのは、悪書を読まないためのやり方が示してあることだ。著者らは、読書のレベルを4種に定めているが、ここでは便宜的に2種のレベルに触れたい。ひとつは「点検読書」であり、次に「分析読書」である。
 現在、日本では年間に8万点近くの本が刊行されているという。どれほどの読書家でも、すべてを読むのは難しい。ショーペンハウエルの勧めるように、古典を選ぶのも有力なやり方だが、新刊本にも良書が含まれていることがある。それを検知し、なおかつ悪書を読まないために「点検読書」は役立つ。

「点検読書」とは、一言でいえば下読みのことだ。①表題や序文を見ること。②本の構造を知るために目次を調べる。③索引を調べる。④カバーに書いてあるうたい文句を読む。⑤その本の議論のかなめと思われるいくつかの章をよく見ること。⑥ところどころ拾い読みしてみる。

「探偵になったつもりで、その本の大きなテーマや意図を見いだす手がかりを探し求め、あらゆるヒントに注意をはらうのだ」

 この作業によって、読むに値すると判断した本は、「分析読書」の対象とする。
 これは、理解するための読み方で、一言でいえば精読のことだ。著者の伝えたいことを読み取って、その当否を吟味し、批評し、評価を下すのである。さらに詳しくは、本書を手に取ってほしい。
 最後に、最近になって読んだ本の中から、読書に役立つと思われるものを2冊紹介しよう。1冊は、岡崎武志の『読書の腕前』。これは蔵書のせいで居場所がなくなるほどの、本好きによる本との付き合い方をしるしたものだ。
「積読(つんどく)」の効用を述べた個所がいい。普通は、ただ、つんどくだけなら、経済的にも空間的にも不経済なので、やめたほうがいい、と思いがちだが、つんでおいてときどき手に取ることで、野球の選手がボールを手にするのと同じようなもので、本が馴染んでくるらしい。こういう本を読んでいると、あらためて読書は愉しいと感じる。

 もう1冊は、内田樹の『街場の読書論』。こちらは、自称「食本鬼」による本にまつわるエッセーを集成したものだ。どちらかといえば『読書の腕前』が、黄山谷流の読書の愉しみを味わわせてくれるのに比べて、福沢諭吉流の実学的な読書の在り方を教えてくれる。
 本書では福沢諭吉についての言及がある。その中で、『瘠我慢の説』から公共性を論じた章がいい。実は、国家を建てるのは私事で、

「その存続のために『瘠我慢』をする人間が出てきたときにはじめて公共的なものに『繰り上がる』」

瘠我慢は、

「『選ばれた人間』だけが引き受けることのできる公共的責務」

「瘠我慢を駆動しているのは隣人への『愛』」

という。いまの日本人が銘記すべき言葉かも知れない。
 うーん、やはり、読書は愉しい。次回からもヨムリエ・ムラマサが、読むべき良書を取り上げていきます。ご期待を。

(隔週で掲載いたします。)

参考文献:
『夷斎筆談 夷斎俚言』(石川淳/ちくま学芸文庫)
『福翁自伝』(福沢諭吉著/富田正文校定/岩波文庫)
『読書について』(ショーペンハウエル著/鈴木芳子訳/光文社古典新訳文庫)
『本を読む本』(M.J.アドラー C.V.ドーレン著/外山滋比古 槇未知子訳/講談社学芸文庫)
『読書の腕前』(岡崎武志/光文社知恵の森文庫)
『街場の読書論』(内田樹/太田出版)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「猟師のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。