HD074_L

安倍政権の「目玉」政策の一つ――道徳教科化への動き

フリーライター
草野 亘

加速する道徳教科化への動き

 第2次安倍内閣は「アベノミクス」と呼ばれる経済再生政策とともに、「教育再生」も重要政策に掲げている。その目玉の1つが「道徳の教科化」だ。これまで教科ではなかった道徳を「特別の教科」と位置付け、教科書も作り、生徒たちを道徳という尺度で測る何らかの評価も行われることになる。

 道徳の教科化を巡り、文科省の「道徳教育専門部会」が平成26年3月から10回に渡って開催された。その議論の内容をまとめた答申が昨年(2014年)10月21日に発表された。答申では、道徳教育の目的、指導方法、評価方法、教科書選定などについて、様々な提案がなされている。これに基づいて、早ければ平成30年から道徳が教科化される。
 さて、この「道徳教育専門部会」とはどのような会なのか。部会のメンバーは教育関連の研究者や小・中学校の教員などだ。道徳教育に関しての話し合いだからこのメンバー構成は当然かもしれない。だが、この人選にはある重大な問題がある。それは、道徳の「専門家」である哲学者・倫理学者が加わっていないことだ。
 このことで答申は哲学的に多くの問題を孕むものになってしまったと筆者は考えている。以下でその例をいくつか見てみよう。

答申の問題点①――認知と実践の問題

 答申の問題の1つに道徳における「認知」と「実践」についての問題がある。
 これまでの道徳教育では生徒の「認知面」に焦点がおかれてきた。例えば、生徒に偉人の伝記を読ませて登場人物の気持ちの変化について考えさせる、物語を読んで登場人物の感情の変化を感じさせるなど、〝考えさせたり〟〝感じさせたり〟して、生徒の「認知面」の力が養われてきた。
 だが、この方法では生徒の「実践面」の力が鍛えられないとの声がある。欧米に比べて日本の生徒はいじめに対して傍観者になる率が高いというデータが部会で紹介され(第5回)、これが日本の生徒の「実践力」のなさを示すものとされた。道徳教育がいじめの問題の解決に向けて実効的な役割を果たすことを期待されていることもあり、部会では、「道徳教育は認知面だけではなく実践面も強調したものとなることが望ましい」という結論が出された。これは、「いじめは悪いとわかってはいるが、それを止める勇気がない」と言う人でも実際に行動を起こしていけるように指導していこう、という発想だ。
 哲学の視点から見ると、実はこの発想には問題点が考えられる。たとえば、倫理学では「真の道徳認識には必ず動機が伴う」という考えがある。これによると、ある生徒がいじめを真に悪いと信じた場合、その生徒は「必ず」いじめを止めようとする動機を持つ。「悪いと分かってはいるが行動できない」という人は、実はいじめの悪さを本当には分かっていない、ということになるのだ。
 つまり、いじめ防止のために道徳教育が目指すべきなのは、実践面を強調することではなく、生徒にいじめの悪さを徹底的に認知させることであり、認知面のさらなる強化なのだ。
 となると答申が示した「実践面の強調」という方向性は必ずしも正しいものではないということになる。真の認知面の育成なしに実践面の指導を強化しても、生徒が本当に納得していじめの問題に対して立ち向かうことができない、とも言えるからだ。

答申の問題点②――道徳的個別主義からの反論

 答申には、「認知」と「実践」の他にも、たとえば「道徳的価値の自覚」についての問題がある。
 部会では道徳教育の目的は生徒の人格の完成であることが確認されたが、「正直さ」「友情」「礼儀」「勤勉さ」などの徳目は適切な道徳的価値であるとされたまま議論が進められた。その結果、もともと道徳教育の目的の1つとして掲げられていた「道徳的価値の自覚」に関して議論が深められることはなく、変更もされなかった。
 最近の倫理学ではこれらの徳目は常に正しいものではないとする「道徳的個別主義」と呼ばれる考えが提案されている。この考えによると、これらの徳目は常に正しいわけではなく、場合によっては悪にもなる。
 例えば、友達が一緒に悪さをしようともちかけてきたとしよう。この場合、友達のために一緒になって悪さをすることは正しいことではなく、むしろ友達を裏切ってでも悪事を止めることが正しい行いだろう。これは「友情」の価値が常に正しいわけではないことを示している。
 他の徳目でもこのような例外は容易に列挙できる。親切な行為が他人の自発的な行為の妨げになる場合もあるし、正直すぎることで不必要に秘密を暴露して他人を傷つけてしまうこともある。
 このように考えると、正しい行いをするために児童・生徒が必要なことは、常識的な徳目を自覚してそれに沿って行為することではなく、状況に応じて最も重要な事柄に気がつくことができる「敏感性」を身に着けることになるだろう。このような敏感性を持つことで、状況に応じて適切な判断を下せるからだ。答申が前提としている道徳的価値の自覚が道徳教育の目標とされてしまった場合にこのような敏感性を養うことができるのか、疑問が残る。

哲学者・倫理学者も含めた慎重な議論を

 答申の中には他にも、哲学者・倫理学者ならば容易に気がつく〝議論の余地のある〟提案や考えがいくつか見受けられる。
 道徳教育についてどのような政策をとるのかは国の未来にとって非常に重要な課題であろう。だからこそ、拙速に道徳教育の教科化を推し進めるのではなく、道徳の専門家である哲学者や倫理学者も交えた慎重な議論が必要なのではないだろうか。


くさの・わたる●1982年生まれ。神奈川県在住。哲学・倫理学の視点から時事問題などについて精力的に文筆活動を行っている。