【コラム】日本人を魅了し続ける「かぐや姫」――私たちは、どこから来て、どこに行くのか

フリーライター
青山樹人

1000年前の『E.T.』

 スタジオジブリの最新作『かぐや姫の物語』が、封切り最初の土日だけで22万2822人を動員し、順調な滑り出しを見せた。
 これから映画を観る人も多いだろうから、ここでは映画そのものには触れないことにして、この作品の原作となった古典『竹取物語』について、少し考えてみようと思う。
 日本最古の物語とされている『竹取物語』だが、その正確な成立時期や作者はわかっていない。ただ平安中期(11世紀初頭)に書かれたとされる『源氏物語』にも「物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁」と記されていることから、当時すでに最古の物語として知られていたことがうかがえる。9世紀末の成立という説が主流だ。

 一般に知られた『竹取物語』は、このような話である――。
 ある日、竹取の翁(おきな=老人)が光り輝く竹の中から小さな女の子を見つけ、自宅に連れ帰って妻である媼(おうな=老婦人)と一緒にわが子として育てる。女の子は驚くべき速さで成長し、同時に翁は黄金の出る竹を何度も発見して長者となった。
 美しい娘に成長し「なよ竹のかぐや姫」と名づけられると、その才色の評判を聞きつけた男たちが門前に溢れた。いずれ劣らぬ5人の公達(きんだち)が姫に求婚したが、姫は受諾の条件としてそれぞれに伝説上の珍宝を手に入れることを求め、公達たちは誰ひとりこれに応じることができなかった。
 その様子を知った帝が姫に参内を求めたが、姫はやはり拒絶した。不意を衝いて姫の屋敷に乗り込んだ帝が、力づくで姫を連れ出そうとするも失敗に終わる。
 やがて姫は父母に「自分は月の世界の人間であり、この地上で長い歳月を過ごしてしまったが、月の世界ではわずかな時間である。8月の満月の夜、月から来る迎えと共に、月の世界に帰らねばならない」と告げた。
 満月の夜、帝は2千人の兵で翁の屋敷を警護させる。しかし、月から雲に乗った人々が来ると兵士らは眠ってしまい、嘆き悲しむ翁と媼を置いて、姫は月の世界に帰ってしまう。

 さながらスピルバーグの『E.T.』のような、異星人と地球人との交流。この奇譚ともいえる〝おとぎ話〟が、千年以上も人々の心を捉えて離さないのはなぜなのだろう。

物語に秘められたメッセージ

 『竹取物語』が成立したと考えられる9世紀末から10世紀初頭は、まさに藤原氏による摂関政治体制が確立した時代である。藤原氏は、政敵を失脚させる一方、娘を天皇に嫁がせ天皇の外祖父となることで朝廷の権力を手中にしていった。
 かぐや姫との結婚を求めて翻弄され破滅に至っていく5人の公達たちの姿は、栄華と名利の争奪に明け暮れる貴族社会への痛烈な批判ともとれる。
 また、かぐや姫が帝の寵愛を求めるどころか、むしろ帝がその権力を誇示してわがものにしようとしても断固としてこれを拒否する展開は、娘を帝に嫁がせることで権勢をほしいままにしていた藤原氏への、痛罵であり異議申し立てにも見える。
 この物語の作者として、応天門の変で藤原氏によって失脚させられた紀貫之の名がしばしば挙げられるのは、そうした類推による。

 それはそれとして、やはり『竹取物語』のドラマ性を生み出しているのは、かぐや姫が立っている時空間の異質さだろう。
 彼女は、通常の人間とは異なるスピードで成長し、しかも物語の終盤では地上の長い歳月も月の世界では短い時間に過ぎないと語っている。つまり、彼女の生命時間は地上の人間界における生命時間を自在に超えているのである。姫は、月の世界の人々は老いることがないとも語っている。
 また、本来は月の世界の住人であったという設定によって、絶対的に見えた人間社会の価値観を相対化させることに成功している。宇宙に本地がある姫にとっては、地上の栄華も王権も、執着すべきものでもなければ束縛されるものでもないのだ。
 一面から見た筋立ての妙味は、竹取で生計を立てる名もなき庶民の老夫婦が、美貌の娘と莫大な財宝を手に入れ、帝さえ含めた貴族社会の関心の的となっていくという、オーソドックスなサクセスストーリーだ。
 だが、並行するもう一面の展開で、その名利や栄華の中心にいるはずのヒロインが、これらの価値に執着することを拒絶し続ける。そして、最終盤で明かされる〝月の人〟という姫の本地。
 この世における仮の姿が取り払われて、永遠性をもった宇宙的なスケールの本地が明かされる展開は、法華経の如来寿量品で釈尊の本地が永遠の寿命を持った久遠の仏であったと明かされることとも非常に似通っている。
 当時の貴族階級に属していたであろう『竹取物語』の作者は、当然のことながら教養として法華経の筋立てを知っていたはずだ。

 月の世界から地上に来たヒロインが、ふたたび月の世界に帰っていく。
『竹取物語』は、巧みなエンタテイメントの世界に読者を誘い込みながらも、「私たちは、なにものなのか」「私たちの生命は、どこから来て、どこに行くのか」という哲学的な問いを投げかけるのである。
 おそらく、それこそがこの物語が千年の時を超えて人々を魅了する磁場のような働きをしているのだと私は思う。
 さて、21世紀版リメイクともいえるジブリ映画は、どのように現代の人々の心を打つだろうか。


あおやま・しげと●東京都在住。雑誌や新聞紙への寄稿を中心に、ライターとして活動中。著書に『宗教は誰のものか』(鳳書院)など。