【コラム】「逆境」こそが生命に新たな価値を開かせる――生物学の知見と、大乗仏教が説く「変毒為薬」の智慧

ライター
青山樹人

なぜ生物は動くようになれたのか

 生物学者・福岡伸一さんの著作は、どれも引き込まれるような名文と哲学的な視点で根強い人気を博している。そのなかの1冊、『動的平衡2 生命は自由になれるのか』(木楽舎)に、植物が動物に変わった瞬間の話が出てくる。この場合の〝動物〟というのは、<食べ物を探査し、追い求め、獲得する>(同書)ために自ら行動する生物である。
 福岡さんの推理は、以下のようなものだ。およそ20億年前、原始の海には単細胞の植物性プランクトンが浮遊していた。彼らは光合成をおこない、生存のために必要とするアミノ酸のすべての種類を自前で調達できていた。
 ある時、不幸にも特定のアミノ酸だけが合成できない者たちが生まれた。足りないアミノ酸は外部から摂取して補うしかない。そこで他者を捕食するために鞭毛を生やして水中を移動するようになった。
 もしくは、何かのきっかけで鞭毛の生えた連中が出現した。彼らはそれで水中の移動が可能になり、光合成だけに頼らなくても餌を捕食することができるようになった。その結果、逆にある種のアミノ酸については自前で生産する機能を捨てたのではないか。
 どちらが先なのかはわからないが、生命の維持に必要とするアミノ酸のうち、われわれ動物は何種類かのアミノ酸を作ることができない。そして、そのことが生命が自ら動く機能を身につけたことと深くかかわっていると福岡さんは言う。

 今から約6500万年前、恐竜の絶滅の原因となった大異変が地球を襲った。一説には巨大隕石の衝突といわれている。
 大火災と大津波のあと、地球は巻き上げられた塵に包まれ、太陽光が遮られた。巨大な恐竜たちは死に絶え、海で繁栄していたアンモナイトたちも絶滅した。
 ところが、私たち哺乳類の祖先はこのカタストロフィを生き延びた。小さなネズミのような姿をしていたわれわれの先祖は、すでに2億年前、恐竜の全盛期に地上に出現していたが、当時は大型化していく恐竜の繁栄の陰で、彼らに見つからないように息をひそめて暮らしていた。体が小さく夜行性で、体温を保ち、子どもを子宮で成長させ母乳で育てるという哺乳類の機能は、恐竜全盛時代に〝負け組〟だった先祖たちが、さまざまな行動の自由を失った果ての選択だったのである。
 しかし、それらの条件が備わっていたからこそ、先祖たちは破滅的な環境の変化を耐え抜くことができた。そして、恐竜の消え去った地球でその後の多種多様な進化と繁栄を迎えるのである。
 そういえば、東大などの研究チームが先ごろ発表したところによると、マグロやカツオ、サバなど外洋を遊泳する肉食魚の多くに共通する祖先が、DNA解析の結果、やはり6500万年前ごろの深海魚である可能性が高いことがわかったそうだ。彼らも、深く暗い深海に追いやられていたことで、大異変を生き延びたのだろう。

生命に備わった「変毒為薬」の力

〈生命の進化の過程で重要なのは、実は「負ける」ということである。一度、負けることによって、初めて新しい変化が選択される〉(同書)

と福岡さんは述べている。
 壮大な宇宙の営みの時間軸にも、一個の生命の生涯のうちにも、思いがけず、それまでの調和のとれた運行が乱れ、阻害され、破壊されるような出来事がある。それまで足りていたものを失い、長い忍耐を強いられる不遇の局面がある。
 けれども、それこそが生命にとって〝進化〟する好機となる。
 この生命の本来的な性質、生命が内在しているダイナミズムを、大乗仏教では端的に「変毒為薬(へんどくいやく)」と説く。
「もう、これでよし」あるいは「もはや、これまでか」という衆生の生命の停滞。法華経には、仏がその衆生の行き詰まりをあえて打ち破らせ、自身と同じ高みにまで引き上げようとする姿が綴られている。
 この停滞を超克していくドラマを指して、竜樹の著作と伝えられる『大智度論』には「大薬師の能(よ)く毒を以て薬と為すが如し」とあり、天台大師はこの言葉を受けて「譬えば良医の能く毒を変じて薬と為すが如し」(『法華玄義』)と説いた。
 優れた医師が、本来は毒の成分であるものを絶妙に薬として使い切るように、あらゆる生命には、危機や喪失を転換して新たな価値を開いていく力と智慧がある。このことについて、仏法の洞察と生物学の知見は見事に一致する。
 むしろ、その視点から見れば、襲来した危機や喪失と思われた出来事さえ、本質的には生命の大きな営みの智慧に包まれたものなのかもしれない。

 生きようと
 向かえる気持ちは
 芽吹きのよう
 炎に焼かれた
 幹の心は生きている
『点滴ポール 生き抜くという旗印』(ナナロク社)

 筋ジストロフィーと格闘する仙台在住の詩人・岩崎航(いわさき・わたる)氏が、東日本大震災で被災し、死線と絶望をくぐり抜けた果てに詠んだ詩である。


あおやま・しげと●東京都在住。雑誌や新聞紙への寄稿を中心に、ライターとして活動中。著書に『宗教は誰のものか』(鳳書院)など。