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【コラム】「不適切な画像」はなぜ投稿され続けるのか――バイトの悪ふざけが倒産に追い込む時代の病理

ライター
青山樹人

不法行為と炎上の止まらない連鎖

 アルバイト店員らの〝不適切な画像〟がインターネット上にアップされ、批判や抗議が殺到して閉店や倒産に追い込まれるという事態があとを絶たない。
 いうまでもなく、ここにきてなにも急に若者たちのモラルが低下したという話ではなくて、物理的に今までならその場に居合わせた仲間内での悪ふざけでしかあり得なかった行為が、ツイッターやフェイスブック、LINEといったSNSに載せることで、天下周知の逸脱行為に拡大し、次々と〝炎上〟に至っているわけである。
 あるいは、そうした「情報の拡声器」が存在する誘惑に耐えられないのか、SNSに載せるためにわざわざ〝不適切な画像〟を撮る人々もいる。自分の不法行為を自分で世界に向かって発表しているわけだが、すべてが手のひらの中の操作で完結するだけに、その「世界に向かって情報を公開している」というリアリティの重みが、瞬間的なノリのなかで掻き消されてしまうのだろうか。

 もちろん、顧客の信頼を裏切るような行為を従業員たちがやってよいわけはなく、とりわけ食品を扱う場面ではなおさらのことではある。弁解の余地はない。
 それはそうなのだが、この一連の現象に滲む不気味さはなんなのだろうと思う。

 1つは、アルバイト店員が冷蔵庫や食器洗い機に入ってふざけるということがらの重さと、そのことで雇用側である店が非難を浴び閉店や倒産に追い込まれるということの釣り合いの問題である。
 きちんと洗浄をするか、百歩譲ってでもその機器を新品と交換すれば済みそうなことであろうに、なぜ閉店や倒産という破局に至るのであろうか。
 経営者が経営を続けることを断念するほどに精神的ダメージを負うような抗議の殺到があるのだろうか。それとも、経営の継続が困難なほど客足が途絶えてしまうのだろうか。いずれであるにしても、あっちでもこっちでも閉店や倒産という選択肢しか残らないというのは、社会がどれほど攻撃的な反応を当事者たちに向けたのかを物語っている。

 2つめは、その攻撃の対象が行為の本人だけにとどまらず、雇用責任あるいは従業員教育の欠如という名目で雇用側にも向けられ、さらに在籍する大学などにまで非難が殺到することの奇怪さだ。
 大学は仮にも18歳を超えた人間を相手に学問を教える立場であり、たとえ人格の陶冶を教育目標に掲げたからといって、個々の学生のプライベートの行動にまで責任を背負いようがない。在籍する大学に抗議や非難を寄せるのは明らかに過剰反応であるし、むしろ当事者の素性を暴き出し、社会的生命に徹底的にダメージを加えてやろうというクレーマーたちの悪意の意図が透けて見える。
 しかも、大学側も社会的良識を堅持する意味で不当な非難は突っぱねればいいものを、ものわかりよく社会に向かって「謝罪」をする傾向にある。先般も、大学教員が酒を飲みながら野球の試合を観戦し、相手チームの地元を揶揄するツイートをしたことで勤務先の大学に批判が殺到し、大学側が謝罪するという珍事があった。こういう過剰な対応をしてしまうと、以後、どの学校も先例に倣わなければいけないような空気が濃度を増していく。
「道義的責任」という言葉だけが錦の御旗のように振り回され、監視と攻撃、謝罪が際限なく拡大していく社会であってよいはずがない。

それはテレビがやってきたことの模倣である

 そして不気味さの3つめは、これだけ〝炎上〟が相次ぎ、その結果が過剰な損失となっているにもかかわらず、同様の行為が一向に収まらないことだ。
 やってしまえば取り返しのつかないダメージになることがわかっているであろうに、まるでより一層のハレーションを狙うかのように人々は〝不適切な画像〟を自ら発信していくのである。大きすぎるリスクを背負ってでも、仲間からのウケ、あるいは炎上という社会的な反応が欲しいのだろうか。

 こうした常軌を逸した「攻撃」「断罪」「逸脱」の堂々巡りは、いったい何なのか。いつから日本は、こうした息苦しい社会になったのだろうかと考えていて、これはマスメディア、とりわけテレビというメディアが、とくにこの20年ほどの歳月、顕著に繰り返してきた行為そのものではないのかと気づいた。
 バラエティーと称する番組では「ともかく笑いがとれ、視聴率が上がれば勝ち」とばかり、刺激的な暴力の消費がエスカレートしてきた。
 何かの事件なり事故なりがあったとして、本来の法の原則からいえば、司法の場で最終的な決着がついて初めて有罪か無罪かが決まる。けれどもテレビに代表されるマスメディアの多くは、ときには逮捕もされないうちから「こいつが怪しい」というキャンペーンを張り、逮捕の瞬間から罪人として断罪し、家族や関係者をカメラの前に引きずり出しては頭を下げさせ、そこに人権など寸毫も必要ないかの如く徹底的にプライバシーを暴き立てることを繰り返してきた。
 社会の公器であるはずのメディアが、視聴率を稼ぐためにモラルや法規すらかなぐり捨てた「逸脱」をし、徹底的な「攻撃」と「断罪」を日常的に反復してきたのである。
 そうした攻撃的な社会の中で子供たちが育ち、大人になった今、そのマスメディアが常習的に犯してきたことがネット社会の上で再生されているのではないのか。反響欲しさに懲りもせず〝不適切な画像〟を発信し続ける人々も、徹底的な制裁を加えようとする人々も、断罪されることを避けがたくしている空気も、すべてテレビの世界の二重写しである。
 だとすれば、誰もが世界とつながる「マスメディア」になり得ている今日、この病理は簡単に収まりそうもない。


あおやま・しげと●東京都在住。雑誌や新聞紙への寄稿を中心に、ライターとして活動中。著書に『宗教は誰のものか』(鳳書院)など。