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【コラム】人間が〝感動する〟ということ――高揚感の消費でよいのか

ライター
青山樹人

回覧される定型化した言葉

 奈良の墨職人を訪ねたアメリカの著名な現代美術家が、その墨を作る工程に驚いたと、あるインタビューで語っていた。
 墨とは、いうまでもなく書道の際に硯(すずり)の上で摩る、あの黒い塊のことである。煤(すす)に香料を混ぜ膠(にかわ)で固めて作る。できあがった墨は、新聞紙を敷いた箱に並べて乾燥させる。毎日毎日、その新聞紙は取り替えられ、奇妙なことに、墨がすっかり乾いた後も、その作業が半年にもわたって続くというのだ。
 異邦人の彼が、これはきっと何かの儀式なのだろうと思っていたら、職人は「表面は乾いているが、芯の部分は乾いていない。このまま出荷したら、100年後にヒビが入るかもしれない。100年先までもつように乾かすのだ」と教えてくれた。
 日本の職人が、自分が死んでいなくなった後の世界を考えて仕事をしていることに、彼は深く心を動かされたという。

 小泉純一郎首相(当時)が、ケガをおして優勝を果たした横綱・貴乃花関に内閣総理大臣杯を授与しながら「痛みに耐えてよく頑張った! 感動した!」と叫んだのは、2001年5月の夏場所千秋楽のことである。この言葉は当時の流行語になった。
 時は流れて、今やこの流行語すら記憶にない世代が大学生や社会人になりつつあるのだが、「感動」という2文字は当時にも増して安売りされ、この国の日常に溢れ返っているように思われる。
 SNSがコミュニケーションの基本ツールになった社会では、「笑顔になる」とか「勇気をもらう」とか「泣いた」といったすっかり定型化された言葉が、せっせと供給されては回覧され消費されている。
 精神科医であり優れた言論人でもある野田正彰氏は『戦争と罪責』(岩波書店刊)の中で、戦後日本に続いている空気を「多幸症」と評した。
 いつもいつも「内容の乏しい、空虚な爽快」を追い、「愉快であることに強迫的」な気分に駆られている社会。衝動的に反応し、痙攣的に涙を流すことはあっても、深い悲しみを抱くことは忌避する精神。
 その「多幸症」の濃度が増していった先に、大衆心理をつかむことに長けた宰相の「感動した!」があったことは、なるほど腑に落ちる。そしてこの空気は、今も相変わらず、むしろ〝症状〟から一段進んで〝体質〟になるほど、人々を覆っているのではないか。
 ほとんど瞬間的な興奮、単なる気分の高揚に過ぎないもの――まさに、「内容の乏しい、空虚な爽快」――が、まるで日々の人生に不可欠なものであるかのように求められ消費されていくのである。

性急に、効率よく、つくられる他者との関係

 なぜ、人々は強迫的に一瞬の爽快感を探し続けるのか。
 マス・メディアは次から次に新しい世界を見せ、官僚の腐敗も、悲惨な事件も、大震災も、原発の過酷事故さえも、あっという間に情報として消費され、深く検証することも深く悲しむことも省略されて、過去のものにされていく。
 政治の停滞が長く続く中で、「待ったなし」という言葉が万能の免罪符のように振りかざされ、弱者が切り捨てられていく。
 すべては性急に、効率よく、進行する。
 そこでは、自分という人間への手触りを確かめるために他者と関わっていく作業さえ、てっとり早く済まされねばならないのだろう。
 回覧されてきたものに脊髄反射的に〝感動〟できる人間であることをアピールし、同じようなものを他人に供給できる自分を価値ある存在だと見なしていくのである。

 100年先の、自分がこの世から消えた世界に暮らす他者の満足を思いながら、傍目にはわからない手間暇をかけていく職人の仕事。この価値観を支える時間感覚は、もはや宗教的ですらある。
 異国から来た芸術家は、思いもかけずその秘密に触れて、深く心を揺り動かされた。
 私は、人間が感動するというのは、おそらくこういうことではないのかと思う。


あおやま・しげと●東京都在住。雑誌や新聞紙への寄稿を中心に、ライターとして活動中。著書に『宗教は誰のものか』(鳳書院)など。