憲法25条の生存権と9条の平和主義の理想を守る

首都大学東京准教授
木村草太

憲法と「生存権」

 日本国憲法には、大きく分けて自由権、請求権という2つの権利が定められています。自由権とは「××をされない権利」であり、言論・表現の自由や信教の自由、検閲されない自由などです。自由権は、積極的に実現する法律がなくても、刑罰を科さないという消極的な形で実現できます。
 請求権とは国への「作為」――憲法が国に対して「××を実現してください」と要求する権利のことです。教育を受けるための環境を整えてもらう権利、裁判を受ける権利など、憲法には請求権がいくつも定められています。憲法25条(生存権)もその1つです。請求権を実現するためには、憲法の精神に従って法律を整備しなければなりません。
 裁判を受ける権利は、民事訴訟法や刑事訴訟法が実現し、教育を受ける権利は、学校教育法が実現しています。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定める生存権は、生活保護法が実現しているわけです。
 憲法25条2項には「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と書かれています。生活保護は、数ある社会保障のなかでも、憲法25条が求める特別な社会保障なのです。
 今年(2013年)8月から、生活保護費の減額支給がスタートしました。2015年度まで3年かけて減額し、生活扶助(食費や光熱費)の基準額が最大で1割減らされます。生活保護費の減額支給によって、果たして憲法25条が定める「健康で文化的な最低限度の生活」を営めるのか。為政者には根拠を示す説明責任があります。
〝最底辺労働者の生活水準が低下しているのだから、生活保護を1割減らしてもよい〟という論理は成り立ちません。労働者の給与水準が最低限度を下回っているなら、むしろその労働者も保護しなければならないと考えるべきです。日本経済全体の停滞や、最低賃金水準の低下の問題は、生活保護の切り下げとは切り離して考えるべきです。
 また、現在の生活保護は金銭給付ですが、ほかにも考えなければならない視点もあります。
 ひとくちに生活すると言っても、人によって「生活力」は違います。たとえば掃除も洗濯も料理も普通にできる人と、病気などでうまくできない人とでは、同じ金額を給付されても、生活の質は変わってきます。これは金額に換算されにくいため見えにくい点ですが、生活保護受給者には、この目に見えない生活力に弱みを抱えている方も多い。本来ならば、こうしたことも含めて知恵を出していく必要があると思います。
 自由競争経済のなかで生きていけない人や病気の人の生活は、生活保護によって必ず維持しなければなりません。「健康で文化的な最低限度の生活」を営む生存権は、不当に死刑にされない権利と同じく、人の生死にかかわります。国民も国会議員も、それくらいの緊張感を持って生存権について考えなければなりません。

憲法9条が認める自衛権の行使

 憲法9条には「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と定められています。
 だからといって、自衛隊のような実力組織をなくす必要はありません。憲法9条は「国際平和」を守るべきだと言っているのであって、「絶対非武装」が目的ではないからです。平和を守るために一定の実力組織を置くことは、憲法9条の趣旨に反しません。
 法律用語の「戦争」と一般用語の「戦争」は違う意味を持っています。20世紀の国際法では、戦争という行為は違法とされているのです。では、なぜイラクやアフガニスタンで現実に軍事行動が生じたのか。それは、国際法が例外として「国連の集団安全保障」や「自衛権の行使」を許容しているからです。
 国際法では戦争を起こすことは許されませんが、「急迫不正の侵害」が起こるおそれがあるときに自衛権を行使することは認められます。尖閣諸島に中国の船舶が侵入すると、すぐに「自衛隊が手を出せないのはおかしい。憲法9条を改正すべきだ」という主張が出てきますが、これはおかしいのです。「急迫不正の侵害」と言えるレベルの出来事が起きているのであれば、現行の憲法9条の範囲内でも自衛権を行使できると考えられます。
 ただし、明らかな攻撃意思を持たない飛行機や船舶が日本の領空や領海に侵入してきたからといって、ただちに自衛権を行使できるわけではありません。国際法上、武力行使とは平和的手段をすべて尽くしたあとの最後の手段だからです。
 まだ外交交渉の余地がある現段階において「武力行使によって竹島を取り返す」「中国の海軍基地を攻撃する」といった意見は、自衛権の行使としては到底認められません。周辺諸国との緊張を理由に憲法9条をいじろうとするのは、非常に筋の悪い議論なのです。これは憲法9条ではなく、国際法の枠で考えるべきことです。

平和の理想を掲げ続ける

 自民党は野党時代の昨年(2012年)4月、憲法改正草案を発表しました。新憲法9条で自衛隊を「国防軍」と定め、集団的自衛権を行使し、武器を使ったPKO(国連平和維持活動)を解禁しようという意向が表れています。これは以前からの主張なので意図が明確です。しかし、それ以外は何を目指しているのかよくわかりません。
 憲法12条(国民の責務)の改憲草案では「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」と書かれていました。「公益を尊重する義務」には限定がなく一般的な書き方をしていますから、教育を含めほとんどすべてのことについて「公益に反します」と言えてしまいます。非常に危険な条文です。
 私が自民党の議員と話すときに「国民の権利を制限したいのですか?」と尋ねると、「そうではない。人権を尊重しなければいけないのは当たり前だ」と皆さん口を揃えて言います。
 では、なぜ上記のような条文にしてしまったのでしょう。ひょっとすると自民党の議員は、「自分たちは憲法の文言に初めて手を加えた」という「自民党物語」を実現したいだけなのではないかと感じています。
 公明党の主張する「加憲」は必要であれば進めてもいいでしょう。ただ、「環境権」にしても、大気汚染、日照権、原発など、何を指すのか論者によってまちまちです。誰が誰に対して、どのような権利を主張できるのか、しっかり議論をして細かく具体的に示す必要があります。
 また、憲法9条は、世界平和という究極の理想を示しています。世界各国が軍隊を持たない状態は究極の理想ではありますが、現段階ではそうした状態は現実的ではありません。だからといって単純に自衛隊の存在を憲法に明記するだけでは、「究極の理想を目指そう」という平和憲法の理念が大きく崩れてしまうおそれがあります。
 もちろん、自衛隊の明記や集団的安全保障参加が世界平和のために重要だとの考えに、多くの人が賛成・納得しているのであれば、そうした改正もあっていいと思います。ただし、現行の憲法が持っている「全世界の平和と非武装」という理想の旗は、これからも掲げ続けるべきです。

<月刊誌『第三文明』2013年11月号より転載>


きむら・そうた●1980年、神奈川県横浜市生まれ。憲法学者。東京大学法学部卒業。2003年から東京大学大学院法学政治学研究科助手。06年から東京都立大学(現・首都大学東京)法学系准教授。研究テーマは思想・良心の自由、平等原則、代表概念論、公共建築と法など。著書『憲法の急所 権利論を組み立てる』(羽鳥書店)、『キヨミズ准教授の法学入門』(星海社新書、共著)、『憲法の創造力』(NHK出版新書)など。趣味は将棋。3手詰めの詰め将棋を1時間以内に解くのが「特技」。